十郎権頭、喜三太は、家の上より飛び下りけるが、喜三太は首の骨を射られて失せにける。兼房は楯を後ろにあてて、主殿の垂木に取り付きて、持仏堂の広庇に飛び入る。此処にしやさうと申す雑色、故入道判官殿へ参らせたる下郎なれども「彼奴原は自然の御用に立つべき者にて候ふ。御召し使ひ候へ」と強ちに申しければ、別の雑色嫌ひけれども、馬の上を許され申したりけるが、此の度人々多く落ち行けども、彼ばかり留まりてんげり。兼房に申しけるは、「それ見参に入れて給はるべきや。しやさうは御内にて防矢仕り候ふなり。故入道申されし旨の上は、下郎にて候へども、死出の山の御伴仕り候ふべし」とて散々に戦ふ程に、面を向かふる者なし。下郎なれども彼ばかりこそ、故入道申せし言葉を違へずして留まりけるこそ不便なれ。「さて自害の刻限になりたるやらん、又自害は如何様にしたるを良きと言ふやらん」と宣へば、「佐藤兵衛が京にて仕りたるをこそ、後まで人々讚め候へ」と申しければ、「仔細なし。さては疵の口の広きこそよからめ」とて、三条小鍛治が宿願有りて、鞍馬へ打ちて参らせたる刀の六寸五分有りけるを、別当申し下して今の剣と名付けて秘蔵しけるを、判官幼くて鞍馬へ御出の時、守刀に奉りしぞかし。義経幼少より秘蔵して身を放さずして、西国の合戦にも鎧の下にさされける。彼の刀を以て左の乳の下より刀を立て、後ろへ透れと掻き切つて、疵の口を三方へ掻き破り、腸を繰り出だし、刀を衣の袖にて押し拭ひ、衣引き掛け、脇息してぞ御座しましける。北の方を呼び出だし奉りて宣ひけるは、「今は故入道の後家の方にても兄人の方にても渡らせ給へ。皆都の者にて候へば、情無くはあたり申し候はじ。故郷へも送り申すべし。今より後、さこそ便を失ひ、御歎き候はんとこそ、後の世までも心にかかり候はんずれども、何事も前世の事と思し召して、強ちに御歎きあるべからず」と申させ給へば、北の方、「都を連れられ参らせて出でしより、今まで存命へてあるべしとも覚えず、道にてこそ自然の事も有らば先づ自らを亡はれんずらんと思ひしに、今更驚くに有らず。早々自らをば御手にかけさせ給へ」とて、取り付き給へば、義経、「自害より先にこそ申したく候ひつれ共、余りの痛はしさに申し得ず候ふ。今は兼房に仰せ付けられ候へ。兼房近く参れ」と有りけれども、何処に刀を立て参らすべしとも覚えずして、ひれ伏しければ、北の方仰せられけるは、「人の親の御目程賢かりけり。あれ程の不覚人と御覧じ入りて、多くの者の中に女にてある自らに付け給ひたれ。我に言はるるまでもあるまじきぞ。言はぬ先に失ふべきに暫くも生けて置き、恥を見せんとするうたてさよ。さらば刀を参らせよ」と有りしかば、兼房申しけるは、「是ばかりこそ不覚なるが理にて候へ。君御産ならせ給ひて三日と申すに、兼房を召されて、「此の君をば汝が計らひなり」と仰せ蒙りて候ひしかば、やがて御産所に参り、抱き初め参らせてより、其の後は出仕の隙だにも覚束無く思ひ参らせ、御成人候へば、女御后にもせばやとこそ存じて候ひつるに、北の政所打ち続きかくれさせ給へば、思ふに甲斐無き歎きのみ、神や仏に祈る祈りはむなしくて、斯様に見なし奉らんとは、露思はざりしものを」とて、鎧の袖を顔に押し当てて、さめざめと泣きければ、「よしや嘆くとも、今は甲斐有らじ。敵の近づくに」と有りしかば、兼房目も昏れ心も消えて覚えしかども、「かくては叶はじ」と、腰の刀を抜き出だし、御肩を押へ奉り、右の御脇より左へつと刺し透しければ、御息の下に念仏して、やがてはかなくなり給ひぬ。御衣引き披け参らせて、君の御傍に置き奉りて、五つにならせ給ふ若君、御乳母の抱き参らせたる所につと参り、「御館も上様も、死出の山と申す道越えさせ給ひて、黄泉の遙かの界に御座しまし候ふなり。若君もやがて入らせ給へ」と仰せ候ひつると申しければ、害し奉るべき兼房が首に抱き付き給ひて、「死出の山とかやに早々参らん。兼房急ぎ連れて参れ」と責め給へば、いとど詮方無く、前後覚えずになりて、落涙に堰き敢へず、「あはれ前の世の罪業こそ無念なれ。若君様御館の御子と産れさせ給ふも、かくあるべき契りかや。「亀割山にて巣守になせ」と宣ひし御言葉の末、実に今まで耳にある様に覚ゆるぞ」とて、又さめざめと泣きけるが、敵はしきりに近づく。かくては叶はじと思ひ、二刀刺し貫き、わつとばかり宣ひて、御息止まりければ、判官殿の衣の下に押し入れ奉る。さて生まれて七日にならせ給ふ姫君同じく刺し殺し奉り、北の方の衣の下に押し入れ奉り、「南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」と申して我が身を抱きて立ちたりけり。判官殿未だ御息通ひけるにや、御目を御覧じ開けさせ給ひて、「北の方は如何に」と宣へば、「早御自害有りて御側に御入り候ふ」と申せば、御側を探らせ給ひて、「是は誰、若君にて渡らせ給ふか」と御手を差し渡させ給ひて、北の方に取り付き給ひぬ。兼房いとど哀れぞ勝りける。「早々宿所に火をかけよ」とばかり最期の御言葉にて、こと切れ果てさせ給ひけり。
兼房が最期の事十郎権頭、「今は中々心に懸かる事なし」と独言し、予てこしらへたる事なれば、走りまはりて火をかけたり。折節西の風吹き、猛火は程無く御殿につきけり。御死骸の御上には遣戸格子を外し置き、御跡の見えぬ様にぞこしらへける。兼房は焔に咽び、東西昏れて有りけるが、君を守護し申さんとて、最期の軍少なくしたりとや思ひけん、鎧を脱ぎ捨て、腹巻の上帯締め固め、妻戸よりづと出で見れば、其の日の大将長崎太郎兄弟、壷の内に控へたり。敵自害の上は何事かあるべきとてゐたりけるを、兼房言ひけるは、「唐土天竺は知らず、我が朝に於て、御内の御座所に馬に乗りながら控ゆべきものこそ覚えね。かく言ふ者をば誰かと思ふ、清和天皇十代の御末、八幡殿には四代の孫、鎌倉殿の御舎弟九郎大夫判官殿の御内に、十郎権頭兼房、もとは久我の大臣殿の侍なり。今は源氏の郎等なり。樊噲を欺く程の剛の者、いざや手並を見せてくれん。法も知らぬ奴原かな」と言ふこそ久しけれ。長崎太郎が右手の鎧の草摺半枚かけて、膝の口、鎧の鐙靼金、馬の折骨五枚かけて斬り付けたり。主も馬も足を立て返さず倒れけり。押し懸かり首をかかんとせし処に、兄を討たせじと弟の次郎兼房に打つてかかる。兼房走り違ふ様にして、馬より引き落し、左の脇に掻い挟みて、「独り越ゆべき死出の山、供して越えよや」とて、炎の中に飛び入りけり。兼房思へば恐ろしや、偏に鬼神の振舞なり。是は元より期したる事なり。長崎二郎は勧賞に与り、御恩蒙り、朝恩に驕るべきと思ひしに、心ならず捕はれて、焼け死するこそ無慙なれ。