義経記 - 54 秀衡が子供御追討の事

かくて泰衡は判官殿の御首持たせ、鎌倉へ奉る。頼朝仰せけるは、「抑是等は不思議の者共かな。頼みて下りつる義経を討つのみならず、是は現在頼朝が兄弟と知りながら、院宣なればとて、左右無く討ちぬるこそ奇怪なれ」とて、泰衡が添へて参らせたる宗徒の侍二人、其の外雑色、下部に至るまで、一人も残さず首を斬りてぞ懸けられける。やがて軍兵差し遣はし、泰衡討たるべき僉議有りければ、先陣望み申す人々、千葉介、三浦介、左馬介、大学頭、大炊介、梶原を初めとして望み申しけれども、「善悪頼朝私には計らひ難し」とて、若宮に参詣有りけるに、畠山夢想の事有りとて、重忠を初めとして、都合其の勢七万余騎奥州へ発向す。昔は十二年まで戦ひける所ぞかし、今度は僅に九十日の内に攻め落されけるこそ不思議なれ。錦戸、比爪泰衡、大将以下三百人が首を、畠山が手に取られける。残る所、雑人等に至るまで、皆首を取りければ数を知らざる所なり。故入道が遺言の如く、錦戸、比爪両人両関をふさぎ、泰衡、泉、判官殿の御下知に従ひて軍をしたりせば、争か斯様になり果つべき。親の遺言と言ひ、君に不忠と言ひ、悪逆無道を存じ立ちて、命も滅び、子孫絶えて、代々の所領他人の宝となるこそ悲しけれ。侍たらん者は、忠孝を専とせずんばあるべからず。口惜しかりしものなり。