義経記 - 50 秀衡が子供判官殿に謀反の事

かくて入道死しけれども変はる事も無く、兄弟の子供打ち替へ打ち替へ、判官殿へ出仕して、其の年も暮れにけり。明くる二月の頃、泰衡が郎等何事をか聞きたりけん、夜更け、人静まりてひそかに来たり、泰衡に言ひけるは、「判官殿泉の御曹司と一つにならせ給ひ、御内を討ち奉らんと用意にて候ふ。合戦の習ひ、人に先を取られぬれば、悪しき御事にて候ふなり。急ぎ御用意あるべし」と語りける程に、泰衡安からぬ事に思ひ、「さらば用意あるべし」とて、二月廿一日入道の孝養仏事を営まんと用意しけるが、仏事をば差し置き、一腹の舎弟泉の冠者を夜討にしけるこそうたてけれ。それを見て、兄の西木戸、比爪の五郎、弟のともとしの冠者、此の事人の上ならずとて、各々心々になりにけり。六親不和にして、三宝の加護なしとは是なり。判官も、さては義経にも思ひかからんとて、武蔵を召して、廻文を書かせらる。九州には菊地、原田、臼杵、緒方、急ぎ参るべき由を仰せ下されて、雑色駿河次郎に賜びぬ。夜を日に継ぎて、京に上り、筑紫へ下らんとす。如何なる者か言ひけん、此の由六波羅に聞きて、駿河を召し捕りて、下部廿四人差し添へて、関東へ下されけり。鎌倉殿廻文を御覧じて、大きに怒り、「九郎は不思議の者かな。同じ兄弟と言ひながら、頼朝を度々思ひ替へるこそ不思議なれ。秀衡も他界しつ。奥も傾きぬ。攻めんに何程の事あるべき」と仰せ有りければ、梶原御前に候ひけるが、仰せにて候へども、愚の御計らひにて候ふや。宣旨なりて秀衡を召されけるに、昔将門八万余騎、今の秀衡十万八千余騎にて、片道を賜はらば参るべき由申しけるに、さては叶はずとて止められ、遂に京を見ずとこそ承りて候へ。秀衡一人にても妨げ候はば、念珠、白川両関をかため、判官殿の御下知に従ひて、軍を仕り候はば、日本国の勢を以て、百年二百年戦ひ候ふとも、一天四海民の煩とはなり候ふとも、打ち従へん事叶ひ候ふまじ。只泰衡を御賺し候ひて、御曹司を討ち参らさせ給ひ、其の後御攻め候はば、然るべく候はんずる由を申しければ、「尤も然るべし」とて、頼朝「私の下知ばかりにて適ふまじ」とて、院宣を申されけり。泰衡が義経を討ちたらば、本領に常隆を添へて、子々孫々に至るまで賜はるべき由なり。鎌倉殿御下知を添へて遣はさる。泰衡何時しか故入道の遺言を背いて、領承申しぬ。但し御宣旨を賜はりて討ち奉るべき由申しければ、さらばとて、安達の四郎清忠を召して、此の二三年知行をいくまみたるらん。検見に罷り下るべき由仰せ出ださるる。承り候ひて、清忠奥へぞ下りける。さる程に泰衡俄に狩をぞ始めける。判官も出でて狩し給ふ。清忠粉れ歩きて見奉るに、疑無き判官殿にて御座します。軍は文治五年四月廿九日巳の時と定めけり。此の事義経は夢にも知り給はず。斯かりし所に民部の権少輔基成と言ふ人有り。平治の合戦の時、失せ給ひし悪衛門督信頼の兄にて御座します。謀反の者の一門なればとて、東国に下られたりけるを、故入道情をかけ給へり。其の上秀衡が基成の娘に具足して、子供数多有り。嫡子二男泰衡、三男和泉の三郎忠致、是等三人が外祖父なり。然れば人重くし奉り、少輔の御寮とぞ申す。此の子供より先に嫡子西木戸太郎頼衡とて、極めて丈高く、ゆゆしく芸能もすぐれ、大の男の剛の者、強弓精兵にて、謀賢くあるを、嫡子に立てたりせばよかるべきに、男の十五より内に儲けたる子をば、嫡子に立てぬ事なりとて、当腹二男を嫡子に立てける。入道思へば敢無かりけり。此の基成は判官殿に浅からず申し承り候はれけり。此の事ほのかに聞きて、あさましく思ひて、孫共を制せばやと思はれけれ共、恥づかしくも所領を譲りたる事もなし。我さへ彼等に預けられたる身ながら勅勘の身なり。院宣下る上、何と制するとも適ふまじ。余り思へば悲しくて、判官殿へ消息を奉る。「殿を関東より討ち奉れとて院宣下りぬ。此の間の狩をば栄耀の狩と思し召すや。命こそ大切に候へ、一先づ落ちさせ給ふべくもや候ふらん。殿の親父義朝は、舎弟信頼に与せられ、謀反の為にひくはの死罪に行はれ給ひぬ。又基成東国に遠流の身となり、御辺も是に御渡り候へば、ちしの縁深かりけると思ひ知られて候ひつるに、又後れ参らせて、歎き候はん事こそ口惜しく候へ。同道に御供申し候はんこそ本意にて候ふべきに、年老ひ、身甲斐々々しく候はで、甲斐無き御孝養を申さん事行くも止るも同じ道」と掻き口説き、泣く泣く遣はされけり。判官此の文御覧じて、御返事には、「文悦び入り候ふ。仰せの如く、何方へも落ち行くべきにて候へ共、勅勘の身として空を飛び、地を潛るとも適ひ難し。此処にて自害の用意仕るべし。然ればとて錆矢の一つも放つべきにても候はず。此の御恩今生にてはむなしくなりぬ。来世にては必ず一仏浄土の縁となり奉るべし。是は一期の秘記にて候ふ。御身を放さず、御覧候へ」と唐櫃一合御返事にそへて遣はされけり。其の後も文有りけれども、自害の用意仕るとて、御返事にも及ばず。然れば産して七日になり給ふ北の方を呼び出だし参らせて、「義経は関東より院宣下りて失はるべく候ふ。昔より女の罪科と言ふ事なし。他所へ渡らせ給ひ候へ。義経は心静かに自害の用意仕るべし」と宣へば、北の方聞召しもあへず、袖を顔に押し当てて、「幼きより片時も放れじと慕ひし乳母の名残を振り捨てて付き奉りて下りけるは、斯様に隔て奉らん為かや。女の習ひ片思ひこそ恥づかしくも候へども、人の手に懸けさせ給ふな」と御傍をはなれじとし給へば、判官も涙ながら持仏堂の東の正面をしつらひて、入れ奉り給ひけり。