文治四年十二月十日頃より入道重病を受けて、日数重なりて弱り行けば、耆婆、扁鵲が術だにも敢て叶ふべきと見えざれば、秀衡娘子息其の外所従をあつめて、泣く泣く申されけるは、「限りある業病を受け、命を惜しむなど聞きし事、極めて人の上にてだにも言ふ甲斐無き事に思ひつるに、身の上になりて思ひ知られたるなり。其の故は入道此の度命を惜しく存ずる事は、判官殿入道を頼みに思し召して、遙かの道を妻子具して御座したるに、せめて十年心安く振舞はせ奉らで、今日明日に入道死しぬるならば、闇の夜に燈火を消したる如くに、山野に迷ひ給はん事こそ口惜しく存ずれ。是ばかりこそ今生に思ひ置く事、冥途の障と覚ゆれ。然れども叶はぬ習ひなれば、力なし。判官殿に参り、最期の見参申したく存ずれども、余りに苦しく、合期ならず。是へ申さんは恐有り。此の旨を御耳に入れよ。又各々此の遺言を用ゆべきか。用ゆべきに有らば、言ふべき事を静かに聞くべし」と宣へば、各々「争か背き申すべき」と申されければ、苦しげなる声にて、「定めて秀衡死したらば、鎌倉殿より判官殿討ち奉れと宣旨院宣下るべし。勲功には常陸を賜はるべきと有らんずるぞ。相構へてそれを用うべからず。入道が身には出羽奥州は過分の所にてあるぞ。況んや親に勝る子有らんや、各々が身を以て他国を賜はらん事叶ふべからず。鎌倉よりの御使なり共首を斬れ。両三度に及びて御使を斬るならば、其の後はよも下されじ。仮令下さるとも、大事にてぞ有らんずらん。其の用意をせよ。念珠、白河両関をば西木戸に防がせて、判官殿を愚になし奉るべからず。過分の振舞あるべからず。此の遺言をだにも違へずは、末世と言ふとも汝等が末の世は安穏なるべしと心得よ、生を隔つ共」と言ひ置きて、是を最期の言葉にて十二月廿一日の曙に遂にはかなくなりぬ。妻子眷属泣き悲しむと雖も、甲斐ぞ無き。判官殿へ此の由申されければ、馬に鞭を打ち御座したり。むなしき体に向ひて歎き給ひけるは、「境遙かの道を是まで下る事も、入道を頼み奉りてこそ下り候へ。父義朝には二歳にて別れ奉りぬ。母は都に御座すれども、平家に渡らせ給へば、互ひに快からず。兄弟有りと雖、幼少より方々に有りて、寄合ふ事も無く、剰へ頼朝には不和なり。如何なる親の歎き、子の別れと言ふとも、是には過ぎじ」と悲しみ給ふ事限なし。只義経が運の窮むる所とて、さしも猛き心を引きかへて歎き給ひけり。亀割山にて産れ給へる若君も、判官殿と同じ様に白衣を召して、野辺の送りをし給へり。見奉るにいとど哀れぞ勝りける。同じ道にと悲しみ給へども、むなしき野辺は只独り、送り捨ててぞ帰り給ひぬ。あはれなりし事共なり。