義経記 - 48 継信兄弟御弔の事

さる程に判官殿高館に移らせ給ひて後、佐藤庄司が後家の許へも折々御使遣はされ、憐み給ふ。人々奇異の思ひをなす。或る時武蔵を召して仰せられけるは、継信忠信兄弟が跡を弔はせ給ふべき由仰せられける。「其の次に四国西国にて討死したる者共、忠の浅深にはよるべからず。死後なれば名張に入れて弔へ」と仰せくださるる。弁慶涙を流し、「尤も忝候ふ。上として斯様に思し召さるる事、誠に延喜天暦の帝と申すとも、如何でか斯様には渡らせ御座しまし候はん。急ぎ思し召し立ち給へ」と申しければ、さらば貴僧達を請じ、仏事執り行ふべき由仰せ付けらる。武蔵此の事秀衡に申しければ、入道も且は御志の程を感じ、且は彼等が事を今一入不便に思ひ、しきりに涙にぞ咽びける。兄弟の母尼公の方へも御使有りけり。孫共後家共引き具して参る。御志の余りに御自筆にも法華経遊ばされ、弔はせ給ふ。有り難き例には人々申しあへり。尼公申されけるは、「兄弟の者の孝養、誠に身においては有り難き御志、又は死後の名何事か是に越え申すべし。是程の御志を、此の世に存命へて候はば、如何ばかりか忝ひ参らせ候はんといよいよ涙つくし難く候ふ。然れども今は思ひ切り参らせ候ふ。幼き者共を相続き君へ参らせ候はん、未だ童名にて候ふ」と申しければ、判官、「それは秀衡が名をも付くべけれども、兄弟の者共の名残形見なれば、義経名を付けべし。さりながらも秀衡に聞かせよ」と仰せられて、御使有りければ、入道承り、「内々申し上げたき折節候ふ。恐れ入るばかりに候ふ」と申しければ、「さらば秀衡計らひて」と宣へば、秀衡、「承る」と申して、髪取り上げ、烏帽子著せ、御前に畏まる。判官御覧じて、継信が若をば佐藤三郎吉信、忠信が子をば佐藤四郎義忠と付け給ふ。尼公斜ならず悦び、「如何に和泉の三郎、予て申せし物、我が君へ奉れ」と申しければ、佐藤の家に伝はれる重代の太刀を進上す。北の方へは唐綾の御小袖、巻絹など取り添へて奉る。其の外侍達にもそれぞれに参らせける。尼公いとど涙に咽び、「あはれ同じくは兄弟の者共御供して下り、御前にて孫共に烏帽子を著せなば、如何ばかり嬉しからまし」と流涕焦れければ、二人の嫁も亡き人の事を一入思ひ出だし、別れし時の様に、声も惜しまず悲しみけり。君も哀れに思し召し、御涙を流させ給ふ。御前なりし人々、秀衡は申すに及ばず、袂を顔に押し当てて、各々涙をぞ流しける。判官盃取り上げ給ひ、吉信に下さる。盃のけうはい、当座の会釈、誠に大人しく見えければ、「さても継信によくも似たるものかな。汝が父屋嶋にて義経が命にかはりしをこそ源平両家の目の前、諸人目を驚かし、類有らじと言ひしが、実に我が朝の事は言ふに及ばず、唐土天竺にも主君に志深き者多しと雖も、かかる例なしとて、三国一の剛の者と言はれしぞかし。今日よりしては、義経を父と思へ」と仰せられて、御座近く召されて、後の髪を撫でさせ給ひ、御涙堰き敢へ給はず。其の時亀井、片岡、伊勢、鷲尾、増尾の十郎、権守、荒き弁慶を始めとして、声を立ててぞ泣きにける。暫く有りて御涙を止め、義忠に御盃下され、「汝が父、吉野山にて大衆追つ掛けたりしに、義経を庇ひ、一人峰に留まらんと言ひしを、義経も留めん事を悲しみ、一所にと千度百度言ひしに、侍の言葉は綸言にも同じ。猶し汗の如しとて、既に自害せんとせし儘に、力及ばず、一人峰に残し置きたりしに、数百人の敵を六七騎にて防ぎ、剰へ鬼神の様に言はれし横川の覚範を討ち取り、都に上り、江馬の小四郎を引き受け、其の所をも切り抜けしに、普通の者ならば、それより是へ下るべきに、義経を慕ひ、在所を知らずして、六条堀河の古き宿所に帰り来て、義経を見ると思ひて、是にて腹を切らんとて、自害したりし志、何時の世に忘るべき。例無き志、剛の者とて鎌倉殿も惜しみ給ひ、孝養し給ふと聞く。汝も忠信に劣るまじき者かな」とて、又御落涙有りけり。判官伊勢の三郎を召して、小桜威、卯花威の鎧を二人に下されけり。尼公涙を止めて、「あら有りがたの御諚や。侍程剛にても剛なるべき者はなし。我が子ながらも剛ならずは、斯程までは御諚もあるまじ。汝等も成人仕り、父共が如く、君の御用に立ち、名を後代に上げよ。不忠を仕らば、父に劣れる者とて傍輩達に笑はれんぞ。後指を指されば、家の傷なるべし。御前にて申すぞ。よく承り止めよ」とぞ申しける。各々是を聞きて、「兄弟が剛なりしも道理かな。只今尼公の申す様、奇特なり」とぞ感じける。