義経記 - 47 判官平泉へ御著きの事

秀衡判官の御使と聞き、急ぎ対面す。「此の程北陸道にかかりて、御下りとは略承り候ひつれども、一定を承らず候ひつるに依つて、御迎ひ参らせず。越後、越中こそ恨み有らめ、出羽の国は秀衡が知行の所にて候へば、各々何故御披露候ひて、国の者共に送られさせ御座しまし候はざりけるぞ。急ぎ御迎ひに人を参らせよ」とて、嫡子泰衡の冠者を呼びて、「判官殿の御迎ひに参れ」と申しければ、泰衡百五十騎にてぞ参りける。北の方の御迎ひには御輿をぞ参らせける。「かくも有りける物を」と仰せられて、磐井の郡に御座しましたりければ、秀衡左右無く我が許へ入れ参らせず、月見殿とて常に人も通はぬ所に据ゑ奉り、日々の椀飯をもてなし奉る。北の方には容顔美麗に心優なる女房達十二人、其の外下女半物に至るまで、整へてぞ付け奉る。判官と予ての約束なりければ、名馬百疋、鎧五十両、征矢五十腰、弓五十張、御手所には桃生郡、牡鹿郡、志太郡、玉造、遠田郡とて、国の内にて良き郡、一郡には三千八百町づつ有りけるを、五郡ぞ参らせける。侍共には勝れたる胆沢、江刺、はましの庄とて、此の中分々に配分せられけり。「時々は何処へも出で、なぐさみ給へ」とて、骨強き馬十疋づつ、沓行縢に至るまで、志をぞ運びける。「所詮今は何に憚るべき、只思ふ様に遊ばせ参らせよ」とて、泉の冠者に申し付けて、両国の大名三百六十人を選つて、日々の椀飯を供へたる。やがて御所つくれとて、秀衡が屋敷より西にあたりて、衣川とて地を引き、御所つくりて入れ奉る。城の体を見るに、前には衣川、東は秀衡が館なり。西はたうくが窟とて、然るべき山に続きたり。斯様に城郭を構へて、上見ぬ鷲の如くにて御座しけり。昨日までは空山伏、今日は何時しか男になりて、栄華開いてぞ御座しける。折々毎に北陸道の御物語、北の方の御振舞など仰せられ、各々申し出だし、笑草にぞなりける。かくて年も暮れければ、文治三年になりにけり。