此処に越後の国府の守護鎌倉へ上りてなし。浦の代官はらう権守と言ふ者有り。山伏著き給ふと聞きて、浦の者共を催して、櫓櫂などを乳切木材棒にして、網人共を先として、理非も弁へぬ奴原が二百余人観音堂を押し巻きたり。折節侍共、方々へ斎料尋ねに行きければ、判官只一人御座しける所に押し寄す。直江の御堂に騒動する事聞こえければ、弁慶走り合はんと急ぐ。判官問答し給ひけるは、昨日までは羽黒山伏と宣ひしが、今は羽黒近ければ、引き代へて、「熊野より羽黒へ参り候ふが、船を尋ねて是に候ふ。先達の御坊は旦那尋ねに御座しまして候ふ。是は御留守に候ふ。何事ぞ」などと問答し給ふ所に武蔵坊物の翔りたる様にてぞ出で来たり申しけるは、「あの笈の中には三十三体の聖観音京より下し参らせ候ふが、来月四日の頃には御宝殿に入れ参らせ候はんずるぞ。各々身不浄なる様にて、左右無く近づきて権現の御本地汚し給ふな。仰せらるべき事有らば、外処にて仰せられ候へ。権現を汚し参らせ給ふ程ならば、笈を滌がざらんより外はあるまじ」と威しけれ共、少しも用ゐずして、口々に罵りけり。権守申しけるは、「判官殿、道々も陳じて通り給ふ事、其の隠れなし。是には今程守護こそ留守にて候へども、形の如くも此の尉が承つて候ふ間、上つ方まで聞召し候はんずる事にて候ふ間、斯様に申し候ふ。さ候はば、心休めに笈を一挺賜はつて見参らせ候はん」と申しければ、「是は御本尊の渡らせ御座しまし候ふ笈を、不浄なる者に左右無く探させん事恐れにてはあれども、和殿原が疑をなし、好む禍なれば、罪を蒙らんは汝等次第よ。すは見よ」とて手に当たる笈一挺取つて投げ出だす。何と無く取りて出だしたるが、判官の笈にてぞ有りける。武蔵坊是を見て、あはやと思ひける所に三十三枚の櫛を取り出だして、「是は如何」と申しければ、弁慶あざ笑ひて、「えいえい、何も知り給はずや、児の髪をば梳らぬか」と言ひければ、権守理と思ひければ、傍らに差し置きて、唐の鏡取り出だし、「是は如何」と言へば、「児を具したる旅なれば、化粧の具足を持つまじき謂れが有らばこそ」と言ひければ、「理」とて八尺の掛帯、五尺の鬘、紅の袴、重の衣を取り出だして、「是は如何に。児の具足にも是が要るか」と申しければ、「法師が伯母にて候ふ者、羽黒の権現の惣の巫にて候ふが、鬘袴色良き掛帯買うて下せ」と申し候ふ程に、「今度の下りに持ちて下り、喜ばせんが為にて候ふぞ」と言ひければ、「それはさもさうず」と申す。「さ候はば、今一挺の笈御出し候へ。見候はばや」と申す。「何挺にてもあれ、心に任す」とて、又一挺投げ出だす。片岡が笈にてぞ有りける。此の笈の中には兜籠手臑当、柄も無き鉞をぞ入れたりける。兎角すれども強くからげたり。暗さは暗し。解き兼ねてぞ有りける。弁慶は手を合はせて、南無八幡と祈念して、「其の笈には権現の渡らせ給ひ候ふぞ。返す返す不浄にして罰当たり給ふな」と申しければ、「御正体にて渡らせ給はば、必ず開けずとも知るべき」とて、笈の掛緒を取つて引き上げて振りたりければ、籠手臑当鉞がからりひしりと鳴りければ、権守胸打ち騒ぎ、「斯かる事こそ候はね。実に御正体にて渡らせ給ひ候ひけるを」とて、「是受け取り給へ」と申しければ、弁慶、「然ればこそさしも言ひつる事を。笈滌がざらんには、左右無く受け取り給ふな、御坊達」と言ひければ、左右無く人受け取らず。「予て言はぬ事か、滌がずは祈れ。清めには物が多く要らんずるぞ」と言ひければ、権守、「理を枉げて、受け取り給へ」と言へば、「笈滌がずは、権守が許に御正体を振り棄て奉りて、我等は羽黒に参りて、大衆を催して、御迎ひに参らんずるなり」と威されて、寄せたりける者も一人一人散り散りにぞなりける。権守一人は大事になりて、「笈を滌ぎ候はんには、幾ら程物の要り候ふぞ」と言ひければ、「権現も衆生利益の御慈悲なれば、形の如くにてこそ有らんずれ。先づ御幣紙の料に檀紙百帖、白米三石三斗、黒米三石三斗、白布百反、紺の布百反、鷲の羽百尻、黄金五十両、毛揃へたる馬七疋、粗薦百枚、これ敷きて積みて参らせば、形の如くなりとも、滌ぎて奉らん」とぞ申しける。権守「如何に思ひ候ふとも極めて貧なる者にて候ふ。叶ひ難く候へ」とて米三石、白布三十反、鷲の羽七尻、黄金十両、毛揃へたる神馬三疋、「是より外は持ちたるものも候はず。然るべく候はば、申し上げて賜はり候へ」と詫びければ、「いでさらば権現の御腹なぐさめ参らせん」とて兜、籠手、臑当の入りたる笈に向ひて、何事をか申し、「むつむつかんかんらんらん蘇波訶蘇波訶」と申して、「おんころおんころ般若心経」などぞ祈りける。笈を突き働かして、「権現に其の旨申し上げ候ひぬ。世の例なれば、かくは執り行ひ候ひぬ。是等は御辺の計らひにて、羽黒へ届けて参らせて賜び候へ」とて、権守が許にぞ預けける。さて夜も更けければ、片岡直江の湊へ下りて見れば、佐渡より渡したりける船に、苫をも葺かず主も無く、櫓櫂檝なども有りながら、波に引かれ揺られゐたり。片岡是を見て、「あはれ物やな、此の船を取つて乗らばや」と思ひて、観音堂に参りて、弁慶にかくと言ひければ、「いざさらば此の船取りて、今朝の嵐に出ださん」とて、湊に下り、十余人取り乗りて押し出だす。妙観音の岳より下したる嵐に帆引き掛けて、米山を過ぎて、角田山を見付けて、「あれ見給へや、風は未だ嵐風弱くならば、櫓を添へて押せや」とぞ申しける。青島の北を見給へば、白雲の山腰を離れて、宙に吹かれて出で来るを、片岡申しけるは、「国の習ひは知らず、此の雲こそ風雲と覚ゆれ。如何すべき」と言ひも果てねば、北風吹き来たりて、陸には砂を上げ、沖には潮を巻いてぞ吹きたりける。蜑の釣舟の浮きぬ沈みぬを見給ふにも、「我が船もかくぞ有らめ」と思ひ給ふに、心細くして、遙かの沖に漂ひ給ひけり。「とても叶ふまじくは、只風に任せよ」とて、御舟をば佐渡の島へ馳せ付けて、まほろし加茂潟へ船を寄せんとしけれども、浪高くして寄せ兼ねて、松かげが浦へ馳せもて行く。それも白山の岳より下したる風はげしくて、佐渡の島を離れて、能登の国珠州が岬へぞ向けたりける。さる程に日も暮方になりければ、いとど心ぞ違ひける。御幣を接いで、笈の足に挟みて祈られけるは、「天を祭る事はさる事にて候へ、此の風を和らげて、今一度陸に著けて、ともかくもなさせ給へ」とて笈の中より白鞘巻を取り出だして、「八大龍王に参らせ候ふ」とて、海へ入れ給ふ。北の方も紅の袴に唐の鏡取り添へて、「龍王に奉る」とて海に入れさせ給ひけり。然れども風は止む事なし。さる程に日も既に暮れぬれば、黄昏時にもなりにけり。いとど心細くぞ覚えける。能登国石動の岳より又西風吹きて船を東へぞ向けたりける。あはれ順風やとて、風に任せて行く程に、夜も夜半ばかりになれば、風も静まり、波も和らぎければ、少し人々心安くて、風をはかりに行く程に、暁方に其処とも知らぬ所に御舟を馳せ上げて、陸に上がりて、苫屋に立ち寄りて、「是をば何処と言ふぞ」と問ひければ、「越後の国寺泊」とぞ申しける。「思ふ所に著きたるや」と悦びて、其の夜の中に国上と言ふ所に上がりて、みくら町に宿を借り、明くれば弥彦の大明神を拝み奉りて、九十九里の浜にかかりて、蒲原の館を越えて、八十八里の浜などと言ふ所を行き過ぎて、荒川の松原、岩船を通りて、瀬波と言ふ所に左胡籙、右靭、せんが桟などと言ふ名所名所を通り給ひて、念珠の関守厳しくて通るべき様も無ければ、「如何せん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「多くの難所をのがれて、是まで御座しましたれば、今は何事か候ふべき。さりながら用心はせめ」とて、判官をば下種山伏に作りなし、二挺の笈を嵩高に持たせ奉り、弁慶大の笞杖に突き、「あゆめや法師」とて、しとと打ちて行きければ、関守共是を見て、「何事の咎にて、それ程苛み給ふ」と申しければ弁慶答へけるは、「是は熊野の山伏にて候ふが、是に候ふ山伏は、子々相伝の者にて候ふが、彼奴を失ふて候ひつるに、此の程見付けて候ふ間、如何なる咎をも当ててくれうず候ふ。誰か咎め給ふべき」とて、いよいよ隙無く打ちてぞ通りける。関守共是を見て、難無く木戸を開けて通しけり。程無く出羽の国へ入り給ふ。其の日ははらかいと言ふ所に著き給ひて、明くれば笠取山などと言ふ所を過ぎ給ひて、田川郡三瀬の薬師堂に著き給ふ。是にて雨降り、水増さりければ、二三日御逗留有りけり。此処に田川郡の領主田川の太郎実房と言ふ者有り。若かりし時より数多子を持ちたりけるが、皆先立てて十三になる子一人持ちたりけるが、瘧病をして、万事限りになりにけり。羽黒近き所なれば、然るべき山伏など請じて祈られけれども、其の験もなし。此の山伏達御座する由を伝へ聞きて、郎等共に申しけるは、「熊野羽黒とて、何れも威光は劣らせ給はぬ事なれども、熊野権現と申すは、いま一入尊き御事なれば、行者達もさこそ御座すらん。請け奉りて、験者一座せさせ奉りて見ばや」とぞ申しける。妻女も子の痛はしさに、「急ぎ御使参らせ給へ」とて、実房が代官に大内三郎と言ふ者を三瀬の薬師堂へ参らする。客僧達へ斯くと申しければ、判官仰せられけるは、「請用は得たけれども、我等が不浄の身にては何を祈りても其の験やあるべき。詮も無からぬもの故に、行きても何かせん」と仰せられければ、武蔵坊申しけるは、「君こそ不浄に渡らせ給へ。我等は都を出でしより、精進潔斎もよく候へば、たとひ験徳の程は無く共、我等が祈り候はん景気の、恐ろしさになどか悪霊も死霊もあらはれざるべき。偶々の請用にて候ふに、只御出で候へかし」と申して、各々寄合ひ笑ひ戯れ奉りければ、「是は秀衡が知行の所にて候へば、定めて是も伺候の者にて候はめ。何か苦しく候はん、知らせさせ給へ」と申しければ、弁慶聞きて、「あはれや殿、親の心を子知らずとて、人の心は知り難し。自然の事有らば、後悔先に立つべからず。君の御下著の後、実房参らぬ事は有らじ。其の時の物笑にも知らすべからず」とぞ申しける。「さて祈手は誰をかすべき。護身は君、数珠押し揉みて候はん為には、弁慶に過ぎ候ふまじ」とて、出で立ち給ひけり。御供には武蔵坊、常陸坊、片岡、十郎権頭四人田川が許へ入らせ給ふ。持仏堂に入れ奉る。田川見参に入り、子をば乳母に介錯せさせて、具してぞ出で来たる。験者始め給ふに、よりまはしに十二三ばかりなる童をぞ召されける。判官護身し給へば、弁慶数珠をぞ揉みける。此の人々祈り給ひける景気心中の恐ろしさにや、口走る。幣帛静まりければ、悪霊も死霊も立ち去り、病人即ち平癒す。験者いよいよ尊くぞ見え給ふ。其の日は止め奉りけり。日々に発こりける瘧病今は相違なし。いとど信心増さり、喜悦斜ならず、仮初なれども、権現の御威光の程も思ひ知られて、尊く思し召しけり。御祈りの布施とて、鹿毛なる馬に黒鞍置きて参らせける。砂金百両、「国の習ひにて候ふ」とて、鷲の羽百尻、残る四人の山伏に小袖一重ねづつ参らせて、三瀬の薬師堂へ送り奉る。使帰りけるに、「御布施賜はり候ふ事、さる事に候へども、是も道の習ひにて候へば、羽黒山にしばらく参籠し候はんずれば、下向の時賜はるべく候ふ。其の間預け申し候ふべし」とて返されけり。かくて田川をも発ち給ひ、大泉の庄大梵字を通らせ給ひ、羽黒の御山を外処にて、拝み給ふにも、御参籠の御志は御座しましけれども、御産の月既に此の月に当たらせ給ふに、万恐れをなして、弁慶ばかり御代官に参らせらる。残りの人々はにつけのたかうらへかかりて、清河に著き給ふ。弁慶はあげなみ山にかかりて、よかはへ参り会ふ。其の夜は五所の王子の御前に一夜の御通夜有り。此の清川と申すは、「羽黒権現の御手洗なり。月山の禅定より北の腰に流れ落ちけり。熊野には岩田河、羽黒には清川とて流れ清き名水なり。是にて垢離をかき、権現を伏し拝み奉る。無始の罪障も消滅するなれば、此処にては王子王子の御前にて御神楽など参らせて、思ひ思ひの馴子舞し給へば、夜もほのぼのと明けにけり。やがて御船に乗り給ひて、清川の船頭をばいや権守とぞ申す。御船支度して参らせけり。水上は雪白水増さりて、御船を上せ兼ねてぞ有りける。是や此のはからうさの少将庄の皿島と言ふ所に流されて、「月影のみ寄するはたなかい河の水上、稲舟のわづらふは最上川の早き瀬、其処とも知らぬ琵琶の声、霞の隙に紛れる」と謡ひしも今こそ思ひ知られけれ。かくて御船を上する程に、禅定より落ちたぎる滝有り。北の方、「是をば何の滝と言ふぞ」と問ひ給へば、白糸の滝と申しければ、北の方かくぞ続け給ふ。
最上川瀬々の岩波堰き止めよ寄らでぞ通る白糸の滝
最上川岩越す波に月冴えて夜面白き白糸の滝とすさみつつ、鎧の明神、冑の明神伏し拝み参らせて、たかやりの瀬と申す難所を上らせ、煩ひて御座する所に、上の山の端に猿の声のしければ、北の方かくぞ続け給ひける。
引きまはすかちはは弓に有らねどもたが矢で猿を射て見つるかな
かくて差し上らせ給ふ程に、見るたから、たけ比べの杉などと言ふ所を見給ひて、矢向の大明神を伏し拝み奉り、会津の津に著き給ふ。判官、「寄道は二日なるが、湊にかかりては、宮城野の原、榴が岡、千賀の塩亀など申して、三日に廻る道にて候ふに、亀割山を越えて、へむらの里、姉歯の松へ出でては直に候ふ。何れをか御覧じて通らせ給ふべき」と仰せられければ、「名所名所を見たけれども、一日も近く候ふなれば、亀割山とやらんにかかりてこそ行かめ」とて、亀割山へぞかかり給ひける。