夜も明けければ、如意の城を船に召して、渡をせんとし給ふに、渡守をば平権守とぞ申しける。彼が申しけるは、「暫く申すべき事候ふ。是は越中の守護近き所にて候へば、予て仰せ蒙りて候ひし間、山伏五人三人は言ふに及ばず、十人にならば、所へ仔細を申さで、渡したらんは僻事ぞと仰せ付けられて候ふ。既に十七八人御渡り候へば、怪しく思ひ参らせ候ふ。守護へ其の様を申し候ひて渡し参らせん」と申しければ、武蔵坊是を聞きて、妬げに思ひて、「や殿、さりとも此の北陸道に羽黒の讚岐見知らぬ者やあるべき」と申しければ、中乗に乗つたる男、弁慶をつくづくと見て、「実に実に見参らせたる様に候ふ。一昨年も一昨々年も、上下向毎に御幣とて申し下し賜はりし御坊や」と申しければ、弁慶嬉しさに、「あ、よく見られたり見られたり」とぞ申しける。権守申しけるは、「小賢しき男の言ひ様かな。見知り奉りたらば、和男が計らひに渡し奉れ」と申しければ、弁慶是を聞きて、「抑此の中にこそ九郎判官よと、名を指して宣へ」と申しければ、「あの舳に村千鳥の摺の衣召したるこそ怪しく思ひ奉れ」と申しければ、弁慶「あれは加賀の白山より連れたりし御坊なり。あの御坊故に所々にて人々に怪しめらるるこそ詮無けれ」と言ひけれども、返事もせで打ち俯きて居給ひたり。弁慶腹立ちたる姿になりて、走り寄りて舟端を踏まへて、御腕を掴んで肩に引つ懸けて、浜へ走り上がり、砂の上にがはと投げ棄てて、腰なる扇抜き出だし、労はしげも無く、続け打ちに散々にぞ打ちたりける。見る人目もあてられざりけり。北の方は余りの御心憂さに声を立てても悲しむばかりに思し召しけれども、流石人目の繁ければ、さらぬ様にて御座しけり。平権守是を見て、「すべて羽黒山伏程情無き者は無かりけり。「判官にてはなし」と仰せらるれば、さてこそ候はんずるに、あれ程痛はしく情無く打ち給へるこそ心憂けれ。詮ずる所、是は某が打ち参らせたる杖にてこそ候へ。かかる御労はしき事こそ候はね。是に召し候へ」とて、船を差し寄する。橄取乗せ奉りて申しけるは、「さらばはや船賃なして越し給へ」と言へば、「何時の習ひに羽黒山伏の船賃なしけるぞ」と言ひければ、「日頃取りたる事は無けれども、御坊の余りに放逸に御座すれば、取りてこそ渡さんずれ。疾く船賃なし給へ」とて船を渡さず。弁慶、「和殿斯様に我等に当たらば、出羽の国へ一年二年のうちに来たらぬ事はよも有らじ。酒田の湊は此の少人の父、酒田次郎殿の領なり。只今当たり返さんずるものを」とぞ威しけり。然れども権守、「何とも宣へ、船賃取らで、えこそ渡すまじけれ」とて渡さず。弁慶、「古へ取られたる例は無けれ共、此の僻事したるによつて取らるるなり」とて、「さらばそれ賜び候へ」とて、北の方の著給へる帷の尋常なるを脱がせ奉りて、渡守に取らせけり。権守是を取りて申しけるは、「法に任せて取りては候へども、あの御坊のいとほしければ参らせん」とて、判官殿にこそ奉りける。武蔵坊是を見て、片岡が袖を控へて、「痴がましや、只あれもそれも同じ事ぞ」と囁きける。かくて六動寺を越えて、奈呉の林をさして歩み給ひける。武蔵忘れんとすれ共、忘られず。走り寄りて判官の御袂に取り付きて、声を立てて泣く泣く申しけるは、「何時まで君を庇ひ参らせんとて、現在の主を打ち奉るぞ。冥顕の恐も恐ろしや。八幡大菩薩も許し給へ。浅ましき世の中かな」とて、さしも猛き弁慶が伏し転び泣きければ、侍共一つ所に顔を並べて、消え入る様に泣き居たり。判官「是も人の為ならず。斯程まで果報拙き義経に、斯様に志深き面々の、行末までも如何と思へば、涙の零るるぞ」とて、御袖を濡らし給ふ。各々此の御言葉を聞きて、猶も袂を絞りけり。かくする程に日も暮れければ、泣く泣く辿り給ひけり。やや有りて北の方、「三途の河をわたるこそ、著たる物を剥がるるなれ。少しも違はぬ風情かな」とて、岩瀬の森に著き給ふ。其の日は此処に泊り給ひけり。明くれば黒部の宿に少し休ませ給ひ、黒部四十八箇瀬の渡を越え、市振、浄土、歌の脇、寒原、なかはしと言ふ所を通りて、岩戸の崎と言ふ所に著きて、海人の苫屋に宿を借りて、夜と共に御物語有りけるに、浦の者共、搗布と言ふものを潛きけるを見給ひて、北の方かくぞ続け給ひける。四方の海浪の寄る寄る来つれどもいまぞ初めて憂き目をば見る
弁慶是を聞きて、忌々しくぞ思ひければ、かくぞ続け申しける。
浦の道浪の寄る寄る来つれども今ぞ初めて良き目をば見る
かくて岩戸の崎をも出で給ひて、越後の国の府、直江津花園の観音堂と言ふ所に著き給ふ。此の本尊と申すは、八幡殿安倍の貞任を攻め給ひし時、本国の御祈祷の為に直江の次郎と申しける有徳の者に仰せ付けて、三十領の鎧を賜びて、建立し給ひし源氏重代の御本尊なりければ、其の夜はそれにて夜もすがら御祈念有りけり。