夜も既に明けければ、あら血の山を出でて、越前の国へ入り給ふ。愛発の山の北の腰に若狭へ通ふ道有り。能美山に行く道も有り。そこを三の口とぞ申しける。越前国の住人敦賀の兵衛、加賀国の住人井上左衛門両人承りて、愛発の山の関屋を拵へて、夜三百人、昼三百人の関守を据て、関屋の前に乱杭を打ちて、色も白く、向歯の反りたるなどしたる者をば、道をも直にやらず、判官殿とて搦め置きて、糾問してぞひしめきける。道行き人の判官殿を見奉りては、「此の山伏達も此の難をばよも逃れ給はじ」とぞ申しける。聞くに付けても、いとど行先も物憂く思し召しける所に、越前の方より浅黄の直垂著たる男の、立文持ちて忙はしげにてぞ行き逢ひける。判官是を見給ひて、「何ともあれ、彼奴は仔細有りて通る奴にてあるぞ」と宣ひけるに、笠の端にて顔隠して通さんとし給ふ所に十余人の中を分け入りて、判官の御前に跪きて、「斯かる事こそ候はね。君は何処へとて御下り候ふぞ」と申しければ、片岡、「君とは誰そ。此の中に汝に君と傅かるべき者こそ覚えね」と言ひければ、武蔵坊是を聞きて、「京の君の事か、宣旨の君の事か」と言ひければ、彼の男、「何しに斯くは仰せ候ふぞ。君をば見知り参らせて候ふ間、斯くは申し候ふぞ。是は越後の国の住人上田左衛門と申す人の内に候ひしが、平家追討の時も御伴仕りて候ひし間、見知り奉り候ふ。壇の浦の合戦の時、越前と能登、加賀三箇国の人数著到付け給ひし武蔵坊と見奉るは僻事か」と申せば、如何に口の利きたる弁慶も力無くて伏目になりにけり。「詮無き御事かな。此の道の末には君を待ち参らせ候ふものを。只是より御帰り候へかし。此の山の峠より東へ向うて、能美越にかかりて、燧が城へ出でて、越前の国国府にかかりて、平泉寺を拝み給ひて、熊坂へ出でて、菅生の宮を外処に見て、金津の上野へ出でて、篠原、安宅の渡をせさせ給ひて、根上の松を眺めて、白山の権現を外処にて礼し給ひ、加賀国宮越に出でて、大野の渡りし給ひて、阿尾が崎の端を越えて、たけの、倶利伽羅山を経て、黒坂口の麓を五位庄にかかりて、六動寺の渡して、奈呉の林を眺めて、岩瀬の渡、四十八箇瀬を越え、宮崎郡を市振にかかりて、寒原なかいしかと申す難所を経て、能の山を外処に伏し拝み給ひて、越後国国府に著きて、直江の津より船に召して、米山を冲懸に三十三里のかりやはまかつき、しらさきを漕ぎ過ぎて、寺お泊に船を著け、国上弥彦を拝みて、九十九里の浜にかかりて、乗足、蒲原、八十里の浜、瀬波、荒川、岩船と言ふ所に著きて、須戸うと道は雪白水に、山河増さりて叶ふまじ。いはひが崎にかかりて、おちむつやなかざか、念珠の関、大泉の庄、大梵字を通らせ給ひて、羽黒権現を伏し拝み参らせ、清河と言ふ所に著きて、すぎのをか船に棹さして、あいかはの津に著かせ給ひて、道は又二つ候ふ。最上郡にかかりて、伊奈の関を越えて、宮城野の原、榴の岡、千賀の塩竃、松島など申す名所名所を見給ひては、三日、横道にて候ふ。それより後さうたう、亀割山を越えては、昔出羽の郡司が娘小野の小町と申す者の住み候ひける玉造、室の里と申す所、又小町が関寺に候ひける時、業平の中将東へ下り給ひけるに、妹の姉歯が許へ文書きて言伝しに、中将下り給ひて、姉歯を尋ね給へば、空しくなりて、年久しくなりぬと申せば、「姉歯が標は無きか」と仰せられければ、ある人「墓に植ゑたる松をこそ姉歯の松とは申し候へ」と申しければ、中将姉歯が墓に行きて、松の下に文を埋めて読み給ひける歌、
栗原や姉歯の松の人ならば都の土産にいざと言はましものを
と詠み給ひける名木を御覧じては、松山一つだにも超えつれば、秀衡の館は近く候ふ。理に枉げて此の道にかからせ給ふべし」と申しければ、判官是を聞き給ひて、「是は只者にてはなし。八幡の御計らひと覚ゆるぞ。いざや此の道にかかりて行かん」と仰せられければ、弁慶申しけるは、「かからせ給ふべき。わざと憂き目を御覧ぜんと思し召されば、かからせ給ふべし。彼奴は君を見知り参らせ候ふに於ては、疑も無き作事をして、君を欺り参らせんとこそすると覚え候ふ。先へ遣りても、後へ返しても、良き事はあるまじ」と申しければ、「良き様に計らへ」とぞ仰せられける。武蔵坊立ち添ひて、「どの山をどの迫にかかりて行かんずるぞ」と問ふ様にもてなし、弓手の腕を差し伸べて、頚をつかみ、逆様に取つて伏せ、強胸を踏まへて、刀を抜きて、心先に差し当てて、「汝有りの儘に申せ」と責めければ、顫ひ顫ひ申しけるは、「誠には上田左衛門が内に候ひしが、恨むる事候ひて、加賀国井上左衛門が内に候ふ。「君を見知り参らせて候ふ」と申して候へば、「罷り向ひ参らせて賺し参らせ、候へ」と仰せられ候へ共、如何でか君をば疎に存じ参らすべき」と申しければ、「それこそ己が後言よ」とて、真中二刀刺し貫き、頚掻き離し、雪の中に踏み込うで、さらぬ体にてぞ通り給ふ。井上が下人平三郎と言ふ男にてぞ有りける。余りに下郎の口の利きたるは、却つて身を食むとは是なり。さて十余人の人々、とてもかくてもと打ちふてて、関屋をさしてぞ御座しける。十町ばかり近づきて、勢を二手に分けたりけり。判官殿の御供には武蔵坊、片岡、伊勢の三郎、常陸坊、是を始めとして七人、今一手には北の方の御供として、十郎権頭、根尾、熊井亀井、駿河、喜三太御供にて、間五町ばかりぞ隔てける。先の勢は木戸口に行き向ひたりければ、関守是を見て、「すはや」と言ふこそ久しけれ、百人ばかり七人を中に取り籠めて、「是こそ判官殿よ」と申しければ、繋ぎ置かれたる者共、「行方も知らぬ我等に憂き目を見せ給ふ。是こそ判官の正身よ」と喚きければ、身の毛もよだつばかりなり。判官進み出でて仰せられけるは、「抑羽黒山伏の、何事をして候へば、是程に騒動せられ候ふやらん」と宣へば、「何条羽黒山伏。判官殿にてこそ御座しませ」と申しければ、「此の関屋の大将軍は誰殿と申すぞ」と問ひ給へば、「当国の住人敦賀の兵衛、加賀の国の井上左衛門と申す人にて候へ。兵衛は今朝下り候ひぬ。井上は金津に御座する」と申しければ、「主も御座せざらん所にて、羽黒山伏に手かけて、主に禍かくな。其の儀ならば此の笈の中に羽黒の権現の御正体、観音の御座しますに、此の関屋を御室殿と定めて、八重の注連を引きて、御榊を振れ」とぞ仰せられける。関守共申しけるは、「げにも判官にて御座しまさずは、其の様をこそ仰せらるべく候ふに、主に禍をかくべからん様は如何にぞ」と咎めける。弁慶是を聞きて、「形の如く先達候はんずる上は、山法師原が申す事を御咎め候ひては詮なし。やあ大和坊其処退き候へ」とぞ申しける。言はれて関屋の縁にぞ居給へる。是こそ判官にて御座しましけれ。弁慶申しけるは、「是は羽黒山の讚岐坊と申す山伏にて候ふが、熊野に参りて、年籠りにして、下向申し候ふ。判官殿とかやをば、美濃国とやらん尾張国とやらんより生捕りて、都へ上るとやらん。下るとやらむ承り候ひしが、羽黒山伏が判官と言はるべき様こそなかれ」と言ひけれども、何と陣じ給へ共、弓に矢を矧げ、太刀長刀の鞘を外してぞ居たりける。後の人々も七人連れてぞ来たりける。いとど関守共然ればこそとて、大勢の中に取り籠めて、「只射殺せ」とぞ喚きければ、北の方消え入る心地し給ひけり。或る関守申しけるは、「しばらく鎮まり給へ。判官ならぬ山伏殺して後の大事なり。関手を乞うて見よ。昔より今に至るまで、羽黒山伏の渡賃関手なす事は無きぞ。判官ならば仔細を知らずして関手をなして通らんと急ぐべし。現の山伏ならば、よも関手をばなさじ。是を以て知るべき」とて、賢々しげなる男進み出でて申しけるは、「所詮山伏なりとても、五人三人こそ有らめ、十六七人の人々に争か関手を取らではあるべき。関手なして通り給へ。鎌倉殿の御教書にも乙家甲家を嫌はず、関手取りて兵糧米にせよと候ふ間、関手を賜はり候はん」とぞ申しける。弁慶言ひけるは、「事あたらしき事を言はるるものかな。何時の習ひに羽黒山伏の関手なす法やある。例無き事は適ふまじき」と言ひければ、関守共是を聞きて、「判官にては御座せぬ」と言ふも有り、或ひは「判官なれども、世に超えたる人にて御座しませば、武蔵坊などと言ふ者こそ斯様には陳ずらめ」など申す。又或る者出でて申しけるは、「さ候はば、関東へ人を参らせて、左右を承り候はん程、是に留め奉り候はん」と申しければ、弁慶、「是は金剛童子の御計にてこそ。関東の御使上下の程、関屋の兵糧米にて道せん食はで、御祈祷申して、心安く暫く休みて下さるべし」とて、ちつとも騒がず十挺の笈は関屋の内へ取り入れて、十余人の人々、むらむらと内へ入りて、つつとしてぞ居たる。猶も関守怪しく思ひけり。弁慶関守に向つて問はず語りをぞし居たる。「此の少人は出羽国の酒田の次郎殿と申す人の君達、羽黒山にて金王殿と申す少人なり。熊野にて年籠りして、都にて日数を経て、北陸道の雪消えて、山家山家に伝ひて、粟の斎料など尋ねて、斎食などなりとも取りて下るべく候ひつるに、余りに此の少人故郷の事をのみ仰せられ候ふ間、未だ雪も消え候はねども、此の道に思ひ立ち候ひて、如何せんずると歎き候ひつるに、是にて暫日数を経候はん事こそ嬉しく候へ」と物語共して、草鞋脱ぎ足洗ひ、思ひ思ひに寝ぬ起きぬなど、したり顔に振舞ひければ、関守共、「是は判官にては御座せぬげなり。只通せや」とて、関の戸を開きたれ共、急がぬ体にて一度には出でずして、一人二人づつ、静かに立ち休らひ立ち休らひぞ出で給ふ。常陸坊は人より先に出でたりけるが、後を顧みければ、判官と武蔵坊と未だ関の縁にぞ居給へり。弁慶申しけるは、「関手御免候ふ上、判官にてはなしと言ふ仰せ蒙り候ひぬ。旁々以て悦び入りて候へども、此の二三日少人に物を参らせ候はず候へば、心苦しく候ふ。関屋の兵糧米少し賜はり候ひて、少人に参らせて、通り候はばや。且は御祈祷、且は御情にてこそ候へ」と言ひければ、関守共、「物も覚えぬ山伏かな。判官かと申せば、口強に返事し給ふ。又斎料乞ひ給ふ事は如何」と申しければ、賢しき者、「実は御祈祷にてこそあれ。それ参らせよ」と言ひければ、唐櫃の蓋に白米一蓋入れて参らせける。弁慶是を取りて、「大和坊、是を取れ」と言ひければ、傍らより差し出でて、受け取り給ひけり。弁慶長押の上につい居て、腰なる法螺の貝取り出だし、夥しく吹き鳴らし、首に懸けたる大苛高の数珠取つて押し揉みて、尊げにぞ祈りける。「日本第一大霊権現、熊野は三所権現、大嶺八大金剛童子、葛城は十万の満山の護法神、奈良は七堂の大伽藍、初瀬は十一面観音、稲荷、祇園、住吉、賀茂、春日大明神、比叡山王七社の宮、願はくは判官此の道にかけ参らせて愛発の関守の手にかけて留めさせ奉り、名を後代に揚げて、勲功たいくわいならば、羽黒山の讚岐坊が験徳の程を見せ給へ」とぞ祈りける。関守共頼もしげにぞ思ひける。心中には「八幡大菩薩願はくは送護法迎護法となりて、奥州まで相違無く届け奉り給へ」と祈りける心こそ哀れなる祈りとは覚ゆれ。夢に道行く心地して、愛発の関をも通り給ふ。其の日は敦賀の津に下りて、せいたい菩薩の御前にて一夜御通夜有りて、出羽へ下る舟を尋ね給へども、未だ二月の初めの事なれば、風はげしくて、行き通ふ舟も無かりけり。力及ばず夜を明かして、木芽と言ふ山を越えて、日数も経れば越前の国の国府にぞ著き給ふ。それにて三日御逗留有りけり。
平泉寺御見物の事「横道なれども、いざや当国に聞こえたる平泉寺を拝まん」と仰せける。各々心得ず思ひけれ共、仰せなればさらばとて、平泉寺へぞかかられける。其の日は雨降り、風吹きて世間もいとど物憂く、夢に道行く心地して、平泉寺の観音堂にぞ著き給ふ。大衆共是を聞きて、長吏の許へぞ告げたりける。政所の勢を催して、寺中と一つになりて、僉議しけるは、「当時関東は山伏禁制にて候ふに、此の山伏は只人とも見えず、判官は大津坂本愛発の山をも通られて候ふなる。寄せて見ばや、如何様にも是を判官にて御座すると覚え候ふ」と僉議す。尤もとて大衆出で発つ。彼の平泉寺と申すは山門の末寺なり。然れば衆徒の規則も山上に劣らず、大衆二百人、政所の勢も百人、直兜にて夜半ばかりに観音堂にぞ押し懸けたる。十余人は東の廊下にぞ居たりける。判官と北の方は西の廊下にぞ御座したる。弁慶参りて、「今はこそと覚え候ふ。是は余の所には似るべくも候はず。如何御計らひ候ふ。さりながら叶はざるまでは、弁慶陳じて見候はん間、叶ふまじげに候はば、太刀を抜き、「憎い奴原」など申して飛んで下り候はば、君は御自害候へ」とぞ申して出でける。大衆に問答の間、「憎い奴原」と言ふ声やすると耳を立ててぞ聞き給ふ。心細くぞ有りける。衆徒申しけるは、「抑是は何処山伏にて候ふぞ。打ち任せては留まらぬ所にて候ふぞ」と申しければ、弁慶申しけるは、「出羽の国羽黒山の山伏にて候ふ」「羽黒には誰と申す人ぞ」「大黒堂の別当に讚岐の阿闍梨と申す者にて候ふ」と答へけり。「少人をば誰と申すぞ」「酒田の次郎殿と申す人の御子息金王殿とて、羽黒山にはかくれ無き少人にて候ふぞ」と言ひければ、衆徒是を聞きて、「此の者共は判官にては無き者ぞ。判官にて御座しまさんには、争か是程に羽黒の案内をば知り給ふべき。金王と申すは、羽黒には名誉の児にて候ふなるぞ」。長吏事を聞きて、座敷に居直りて、武蔵坊を呼びて、「先達の坊に申すべき事候ふ」と言へば、弁慶も長吏に膝を組みかけてぞ居たりける。長吏申されけるは、「少人の事承り候ふこそ心も言葉も及ばず御座しまし候ふなれ。学問の精は如何様に御座しまし候ふぞ」と言ひければ、「学問に於ては羽黒には並も御座しまし候はず。申すに付けても、過言にて候へ共、容顔に於ては山三井寺にも御座しまし候ふべき」と誉めたりけり。「学問のみにも候はず、横笛に於ては日本一とも申すべし」と言ひければ、長吏の弟子に和泉美作と申しける法師は極めて案深き寺中一のえせ者なり。長吏に申しけるは、「女ならばこそ琵琶弾く事は常の事にて候ふ。是は女ぞと疑ふ所に、笛の上手と申すこそ怪しく候へ。げに児か笛吹かせて見候はん」と申す。長吏げにもとて、「あはれ、さ候はば音に聞こえさせ給ふ御笛を承り候ひて、世の末の物語にも伝へ候はばや」とぞ申されける。弁慶是を聞きて、「安き事や」と返事はしたれども、両眼真暗になる様にぞ覚えける。さてしもあるべき事ならねば、其の様を少人に申し候はんとて、西の廊下に参りて、「かかる事こそ候はね。有りても有らぬ事を申して候ふ程に、御笛を遊ばさせ参らせて、承るべき由申し候ふ。如何仕るべく候ふ」と申しければ、「さりとては吹かずとも出で給へ」と判官仰せられければ、「あら心憂や」とて、衣引き被き臥し給ふ。衆徒は頻りに「少人の御出で遅く候ふ」と申せば、弁慶「只今只今」と答へて居たりけり。和泉と申す法師言ひけるは、「流石に我が朝には熊野羽黒とて、大所にて候ふぞかし。それに左右無く名誉の児を平泉寺にて呼び出だして、散々に嘲哢したりけると聞こえん事、此の寺の恥に有らずや。少人を出だし奉りもてなす様にて、其の序でに吹かせたらんは苦しからじ」と申しければ、「尤も然るべし」とて、長吏の許に念一、弥陀王とて名誉の児有り。花折りて出で立たせ、若大衆の肩頚に乗りてぞ来たりける。正面の座敷長吏、東は政所、西は山伏、本尊を後ろにし奉りて、仏壇の際に南へ向けて、少人の座敷をぞしたりける。二人の児座敷に直りければ、弁慶参りて「御出候へ」と申しければ、北の方只暗に迷ひたる心地して出で立ち給ふ。昨日の雨にしほれたる顕紋紗の直垂に下には白なへ色を召したりければ、猶も美しくぞ見え給ひける。御髪尋常に結ひなして、赤木の柄の刀に彩みたる扇差し添へて、御手に横笛持ちて御出である。御伴には十郎権頭、片岡、伊勢の三郎、判官殿は殊に近くぞ御座しける。自然の事有らば、人手には掛くまじきものをとぞ思し召しける。正面に出で給へば、殊に其の時は燈火を高く挑げたり。北の方扇取り直し、衣紋掻き繕ひ、座敷に直り給ふ。今までは頑はしき所も御座しまさず。武蔵坊心安く思ひけり。何ともあれ、仕損ずる程ならば、差し違へてこそ如何にもならめと思ひければ、長吏に膝をきしりてぞ居たりける。弁慶申しけるは、「詞候はぬ事、笛に於ては日本一ぞかし。但し仔細一つ候ふ。此の少人羽黒に御座しまし候ふ時も明暮笛に心を入れて、学問の御心も空々に御渡り候ひし程に、去年の八月に羽黒を出でし時、師の御坊、今度の道中上下向の間、笛を吹かじと言ふ誓事をなし給へとて、権現の御前にて金を打たせ奉りて候へば、少人の御笛をば御免候へかし。是に大和坊と申す山伏候ふが、笛は上手にて候ふ。常に少人も是にこそ御習ひ候へ。御代官に是を参らせ候はばや」と申しければ、長吏是を聞きて感じ申しけるは、「あはれ人の親の子を思ふ道有り。師匠の弟子を思ふ志是なり。如何でか御いたはしく、それ程の御誓をば是にて破り参らせ候ふべき。疾く疾く御代官にても候へ」と申しければ、武蔵坊余りの嬉しさに腰を抑へ、空へ向ひて溜息ついてぞ居たりける。「早々参りて、大和坊、御代官に笛を仕れ」と言はれて、判官仏壇の蔭のほの暗き所より出で給ひて、少人の末座にぞ居給ひける。大衆「さらば管絃の具足参らせよ」と申しければ、長吏の許よりくさきのこうの琴一張、錦の袋に入れたる琵琶一面取り寄せ、琴をば御客人にとて北の方に参らせける。琵琶をば念一殿の前に置き、笙の笛をば弥陀王殿の前に置き、横笛は判官の御前に置き、かくて管絃一切れ有りければ、面白しとも言ふも愚か也。只今までは合戦の道にてあるべかりつるに、如何なる仏神の御納受にてや、不思議にぞ覚えし。衆徒も是を見て、「あはれ児や、あはれ笛の音や。念一、弥陀王殿をこそ、良き児と有り難く思ひつるに、今此の児と見比ぶれば、同じ口にも言ふべくもなし」などと若大衆共口々にぞささやきける。長吏寺中に帰りけり。小夜更けて長吏の本より様々に菓子積みなどして、瓶子添へて、観音堂に送りけり。皆人疲れにのぞみつ。「いざや酒飲まん」ととりどりに申しけるを、武蔵坊、「あはれ詮無き殿原かな。欲しさの儘に誰も飲まんずる程に、程無く酒気には本性を正すものなれば、しばらく「少人に参らせよ」「先達の御坊、京の君」などと言ふとも、後は味気無き娑婆世界の習ひ、「北の方に今一つ申せ」「熊井や片岡に思ひざしせん」「伊勢の三郎持ちて来よ」「いで飲まん弁慶」などと言はん程に、焼野の雉子の頭を隠して、尾を出だしたる様なるべし」「酒は上下向の間断酒にて候ふ」とて、長吏の許へぞ返しける。「希有なる山伏達にて有りけるよ」とて、急ぎ僧膳仕立て、御堂へ送りけり。各々僧膳したためて、夜も曙になりければ、今夜の懺法をぞ読みける。伊勢の三郎を使にて、長吏に暇をぞ乞はれける。心ある大衆達、徒歩にてむらむら消え残る雪を踏み分けて、二三町ぞ送りける。恐ろしく思はれし平泉寺をも、鰐の口を逃れたる心地して、足早に通られける。かくて菅生の宮を拝みて、金津の上野へ著き給ふ。唐櫃数多舁かせて、引馬其の数有り。ゆゆしげなる大名五十騎ばかりにぞ逢ふたりける。「是は如何なる人ぞ」と問ひければ、「加賀の国井上左衛門と申す人なり。愛発関へ行くぞ」と申しける。判官是を聞き給ひ、「あはれ遁れんとすれども遁れぬものかな。今はかくぞ」と宣ひて、刀の柄に手を打ち掛け給ひて、北の方の後ろに後ろを差し合はせて、笠の端にて顔を隠して通さんとし給ふ所に、折節風烈しく吹きたりけり。笠の端を吹き上げたりければ、井上一目見参らせて、判官と御目を見合はせ奉り、馬より飛んで下り、大道に畏まつて申しけるは、「かかる事こそ候はね。途中にて参り合ひ参らせ候ふこそ無念に存じ候へ、候ふ所は井上と申して、程遠き所にて候ふ間、彼方へとも申さず候ふ。山伏の色代は恐れにて候ふ。疾く疾く」と申して、我が身馬引き寄せて、左右無くも乗らず、遙かに見送り奉り、御後ろ遠ざかる程にもなりぬれば、各々馬にぞ乗りたりける。判官は余りの事に行きもやり給はず、しきりに見顧り給ひつつ、「七代まで弓矢の冥加あれ」とぞ、面々に申しけるぞあはれなる。其の日は細呂木と言ふ所に井上著きて、家の子郎等共を呼びて申しけるは、「今日行き合ひ参らする山伏をば誰とか見奉る。是こそ鎌倉殿の御弟判官殿よ。あはれ日頃の様におはさんには、国の騒動、道路の大事とこそなるべきに、此の御有様になり給へる御事のいとほしさよ。討ち奉りたらば、千年万年過ぐべきか。余りの痛はしさに難無く通し奉りてこそ」と言ひければ、家の子郎等共是を聞きて、井上の心の中、あはれ情も慈悲も深かりける人やと頼もしくぞ覚えける。判官其の日篠原に泊り給ひけり。明けければ、斉藤別当実盛が手塚の太郎光盛に討たれけるあいの池を見て、安宅の渡りを越えて、根上の松に著き給ふ。是は白山の権現に法施を手向くる所なり。いざや白山を拝まんとて、岩本の十一面観音に御通夜有り。明くれば白山に参りて、女体后の宮を拝み参らせて、其の日は剣の権現の御前に参り給ひて、御通夜有りて、終夜御神楽参らせて、明くれば林の六郎光明が背戸を通り給ひて、加賀の国富樫と言ふ所も近くなる。富樫介と申すは、当国の大名也。鎌倉殿より仰せは蒙らねども、内々用心して判官を待ち奉るとぞ聞こえける。武蔵坊申しけるは、「君は是より宮腰へ渡らせ御座しませ、弁慶は富樫が館の様を見て参り候はん」と申しければ、「偶々有るとも知られで通る道のあるに、寄りては何の詮ぞ」と仰せられければ、弁慶申しけるは、「中々行きてこそよく候へ。山伏大勢にて通ると聞こえ、大勢にて追ひ掛けられては悪しく候はんずれば、弁慶ばかり罷り候はん」とて、笈取つて引つ掛けて、只一人行きける。富樫が城を見れば、三月三日の事なれば、傍には鞠小弓の遊び、傍には闘鶏、又管絃、酒盛にぞ見えける。酒に酔ひたる所も有り。武蔵坊相違無く館の内に入りて、侍の縁の際を通りて、内を差しのぞき見れば、管絃只今盛なり。武蔵坊大の声を上げて、「修行者の候ふ」と申しける。管絃の調子も外れにけり。「御内只今機嫌悪しく候ふ」と申しければ、「上つ方こそ候ふとも、御後見の御方にそれ申して賜び候へや」とて、強ひて近くぞ寄りたりける。仲間雑色二三人出でて、「罷り出でられ候へ」と言ひけれ共、聞きも入れず。「狼籍なり。さらば掴んで出だせ」とて、左右の腕に取り付きて、押せども圧せども、少しも働らかず。「さらば所にな置いそ。放逸に当たりて出だせ」とて、大勢近づきければ、拳を握りて、散々に張りければ、或いは烏帽子打ち落され、髻かかへて間所へ入るも有り。「此処なる法師の狼籍するぞ」とて騒動す。富樫介も大口に押し入れ烏帽子著て、手鉾杖に突きて、侍にぞ出でにける。弁慶是を見て、「これ御覧ぜられ候へ、御内の者共狼籍し候ふ」とて、やがて縁にぞ上がりける。富樫これを見て、「如何なる山伏ぞ」と言へば、「是は東大寺勧進の山伏にて候ふ」「如何に御身一人は御座するぞ」「同行の山伏多く候へども、先様に宮腰へやり候ひぬ。是は御内勧進の為に参りて候ふ。伯父にて候ふ美作の阿闍梨と申すは、東山道を経て、信濃国へ下り候ふ。此の僧は讚岐の阿闍梨と申し候ふが、北陸道にかかり、越後に下り候ふ。御内の勧進は如何様に候ふべき」と申しければ、富樫「よくこそ御出候へ」とて、加賀の上品五十疋女房の方より罪障懺悔の為にとて、白袴一腰、八花形に鋳たる鏡、さては家の子郎等女房達下女に至るまで、思ひ思ひに勧進に入り、惣じて名帳につく百五十人、「勧進の物は、只今賜はるべく候へども、来月中旬に上り候はんずれば、其の時賜はり候はん」とて、預け置きてぞ出でにける。馬に乗せられて、宮腰まで送られけり。行きて判官を尋ね奉れども見え給はず。それより大野の湊にて参り逢ひけり。「如何に今まで久しく、如何に」と仰せられければ、「様々にもてなされて、経を誦みなどして、馬にて是まで送られて候ふ」と申しければ、武蔵を人々上げつ、下しつ、守りける。其の日は竹橋に泊り給ひて、明くれば倶利伽羅山を越えて、馳籠が谷を見給ひて、是は平家の多く亡びし所にてあるなるにとて、各々阿弥陀経を読み、念仏申し、彼の亡魂を弔ひてぞ通られける。兎角し給ふ程に、夕日西へかかりて、黄昏時にもなりぬれば、松永の八幡の御前にして、夜を明かし給ひけり。