義経記 - 42 愛発山の事

判官は海津の浦を立ち給ひて、近江国と越前の境なる愛発の山へぞかかり給ふ。一昨日都を出で給ひて、大津の浦に着き、昨日は御船に召され、船心に損じ給ひて、歩み給ふべき様ぞ無き。愛発の山と申すは、人跡絶えて古木立ち枯れ、巌石峨々として、道すなほならぬ山なれば、岩角を欹てて、木の根は枕を並べたり。何時踏み習はせ給はねば、左右の御足より流るる血は紅を注くが如くにて、愛発の山の岩角染めぬ所は無かりける。少々の事こそ柿の衣にも恐れけれ。見奉る山伏共余りの御痛はしさに、時々代はり代はりに負ひ奉りける。かくて山深く分け入り給ふ程に、日も既に暮れにけり。道の傍二町ばかり分け入りて、大木の下に敷皮を敷き、笈をそばだてて、北の方を休め奉る。北の方「恐ろしの山や、是をば何山と言ふやらん」と問ひ給へば、判官、「是は昔はあらしいの山と申しけるが、当時は愛発の山と申す」と仰せければ、「面白や、昔はあらしいの山と言ひけるを、何とて愛発の山とは名づけけん」と宣へば、「此の山は余りに巌石にて候ふ程に、東より都へ上り、京より東へ下る者の、足を踏み損じて血を流す間、あら血の山とは申しけるなり」と宣へば、武蔵坊是を聞きて、「あはれ是程跡方無き事を仰せ候ふ御事は候はず、人の足より血を踏み垂らせばとて、あら血の山と申し候はんには、日本国の巌石ならん山の、あら血山ならぬ事は候はじ。此の山の仔細は弁慶こそよく知りて候ふ」と申せば、判官、「それ程知りたらば、知らぬ義経に言はせんよりも、など疾くよりは申さぬぞ」と仰せければ、弁慶、「申し候はんとする所を、君の遮りて仰せ候へば、如何でか弁慶申すべき、此の山をあら血の山と申す事は、加賀の国に下白山と申すに、女体后の、龍宮の宮とて御座しましけるが、志賀の都にして、唐崎の明神に見え初められ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊既に其の月近くなり給ひしかば、同じくは我が国にて誕生あるべしとて、加賀の国へ下り給ひける程に、此の山の禅定にて、俄に御腹の気付き給ひけるを、明神「御産近づきたるにこそ」とて、御腰を抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてんげり。其の時産のあら血をこぼさせ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。さてこそあらしいの山、あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて笑ひ給ひけり。