義経記 - 39 静若宮八幡宮へ参詣の事

磯の禅師申しけるは、「少人の事は、思ひ設けたる事なればさて置きぬ。御身安穏ならば若宮へ参らんと、予ての宿願なれば、争か只は上り給ふべき。八幡はあら血を五十一日忌ませ給ふなれば、精進潔斎してこそ参り給はめ。其の程は是にて日数を待ち候へ」とて、一日一日と逗留す。さる程に鎌倉殿三島の御社参とぞ聞こえける。八箇国の侍共御供申しける。御社参の徒然に、人々様々の物語をぞ申しける。其の中に河越の太郎静が事を申し出だしたりければ、各々「斯様の次ならでは争か下り給ふべき。あはれ音に聞こゆる舞を一番御覧ぜられざらんは無念に候ふ」と申しければ、鎌倉殿仰せられけるは、「静は九郎に思はれて、身を華飾にするなる上、思ふ仲を妨げられ、其の形見にも見るべき子を亡はれ、何のいみじさに頼朝が前にて舞ふべき」と仰せられければ、人々「是は尤も御諚なり。さりながら如何して見んずるぞ」と申しける。抑如何程の舞なれば、斯程に人々念を懸けらるるぞ」と仰せられければ、梶原「舞に於ては日本一にて候ふ」とぞ申しける。鎌倉殿「事々しや、何処にて舞うて、日本一とは申しけるぞ」、梶原申しけるは、「一年百日の旱の候ひけるに、賀茂河、桂川皆瀬切れて流れず、筒井の水も絶えて、国土の悩みにて候ひけるに、次第久しき例文、「比叡の山、三井寺、東大寺、興福寺などの有験の高僧貴僧百人、神泉苑の池にて仁王経を講じ奉らば、八大龍王も知見納受垂れ給ふべし」と申しければ、百人の高僧貴僧仁王経を講ぜられしかども、其の験も無かりけり。又或る人申しけるは、「容顔美麗なる白拍子を百人召して、院御幸なりて、神泉苑の池にて舞はせられば、龍神納受し給はん」と言へば、さらばとて御幸有りて、百人の白拍子を召して舞はせられしに、九十九人舞ひたりしに、其の験も無かりけり。「静一人舞ひたりとても、龍神知見あるべきか。而も内侍所に召されて、禄重き者にて候ふに」と申したりけれども、「とても人数なれば、唯舞はせよ」と仰せ下されければ、静が舞ひたりけるに、しんむじやうの曲と言ふ白拍子を半らばかり舞ひたりしに、みこしの岳、愛宕山の方より黒雲俄に出で来て、洛中にかかると見えければ、八大龍王鳴り渡りて、稲妻ひかめきしに、諸人目を驚かし、三日の洪水を出だし、国土安穏なりしかば、さてこそ静が舞に知見有りけるとて、「日本一」と宣旨を賜はりけると承りし」と申しければ、鎌倉殿是を聞召して、さては一番見たしとぞ仰せられける。誰にか言はせんずると仰せられければ、梶原申しけるは、「景時が計らひにて舞はせん」とぞ申しける。鎌倉殿「如何あるべき」とぞ仰せられける。梶原申しけるは、「我が朝に住せん程の人の、君の仰せを争か背き参らせ候ふべき。其の上既に死罪に定まりて候ひしを景時申してこそ宥め奉りて候ひしか。善悪舞はせ参らせ候はんずる」と申しければ、「さらば行きて賺せ」と仰せられけり。梶原行きて、磯の禅師を呼び出だして、「鎌倉殿の御酒気にこそ御渡り候へ。斯かる所に川越の太郎御事を申し出だされ候ひつるに、あはれ音に聞こえ給ふ御舞、一番見参らせばやとの御気色にて候ふ。何か苦しく候ふべき。一番見せ奉り給へかし」と申したりければ、此の由を静に語れば、「あら心憂や」とばかりにて、衣引き被きて臥し給ひけるが、「すべて人の斯様の道を立てける程の、口惜しき事は無かりけり。此の道ならざらんには、斯かる一方ならぬ嘆きの絶えぬ身に、さりとて憂き人の前にて、舞へなどと、容易く言はれつるこそ安からね。中々伝へ給ふ母の心こそ恨めしけれ。然れば舞はば舞はせんと思し召しけるか」とて、梶原には返事にも及ばず。禅師梶原に此の由を言ひければ、相違して帰りけり。御所には今や今やと待ち給ひける所に、景時参りたり。二位殿の御方より「如何に返事は」と御使有り。「御諚と申しつれども、返事をだにも申され候はぬ」と申しければ、鎌倉殿も「もとより思ひつる事を。都に帰りて有らん時、内裏、院の御所にて、兵衛佐は舞舞へとは言はざりけるかと御尋ね有らん時、梶原を使にて舞へと申し候ひしかども、何のいみじさに舞ひ候ふべきとて、遂に舞はずと申さば、頼朝が威の無きに似たり。如何あるべき。誰にてか言はすべき」と仰せられければ、梶原申しけるは、「工藤左衛門こそ都に候ひし時も、判官殿常に御目に懸けられし者にて候へ。而も京童にて口利にて候ふ。彼に仰せ付けらるべく候はん」と申しければ、「祐経召せ」とて召されけり。其の頃左衛門塔の辻に候ひけるを、梶原連れてぞ参りける。鎌倉殿仰せられけるは、「梶原以て言はすれども、返事をだにもせず。御辺行きて賺して舞はせてんや」と仰せられければ、斯かるゆゆしき大事こそ無けれ。御諚にてだにも従はぬ人を、賺せよとの御諚こそ大事なれと思ひて、思ひ煩ひ、急ぎ宿に帰り、妻女に申しけるは、「鎌倉殿よりいみじき大事を承りてこそ候へ。梶原を御使にて仰せられつるにだに用ゐ給はぬ静を賺して舞はせよと仰せ蒙りたるこそ、祐経が為には大事に候へ」と言ひければ、女房、「それは梶原にもよるべからず。左衛門にもよるべからず。情は人の為にも有らばこそ。景時が田舎男にて、骨無き様の風情にて、舞を舞ひ給へとこそ申しつらめ。御身とてもさこそ御座せんずらめ。只様々の菓子を用意して、堀殿の許へ行きて、訪ひ奉る様にて、内々こしらへ賺し奉らんに、などか叶はざるべき」と、世に易げに言ひける。祐経が妻女と申すは、千葉介が在京の時儲けたりける京童の娘、小松殿の御内に冷泉殿の御局とて、大人しき人にてぞ有りける。叔父伊東の次郎に仲を違ひて、本領を取らるるのみならず、飽かぬ中を引き分けられて、其の本意を遂げんが為に、伊豆へ下らんとしけるを、小松殿祐経に名残りを惜しませ給ひて、年こそ少し大人しけれども、是を見よとて祐経に見え初めて、互ひの志深かりけり。治承に小松殿薨れさせ給ひて後は、頼む方無かりければ、祐経に具足せられて、東国へ下りけり。年久しくなりたれ共、流石に狂言綺語の戯れも未だ忘れざりければ、賺さん事も易しとや思ひけん、急ぎ出で立ち、藤次が宿所へ行きけり。祐経先づ先に行きて、磯の禅師に言ひけるは、「此の程何と無く打ち紛れ候へば、疎なりとぞ思し召され候ふらん。三島の御参詣にて渡らせ給ひ候ひつる程に、是も召し具せられ、日々の御社参にて渡らせ給へば、精進無くては叶ひ難く候ふ間、打ち絶え参り候はねば、返す返す恐入りて候ふ。祐経が妻女も都の者にて候ふ。堀殿の宿所まで参りて候ふ。それそれ禅師、良き様に申させ給へ」と申して、我が身は帰る体にもてなして、傍らに隠れてぞ候ひける。磯の禅師静に此の由を語れば、「左衛門の常に訪ひ給ふだに有り難く思ひ参らせつるに、女房の御入までは思ひも寄らざる嬉しさにて候ふ」とて、我が方をこしらへてぞ入れける。藤次が妻女諸共に行きてぞもてなしける。人を賺さんとする事なれば、酒宴始めて幾程も無かりけるに、祐経が女房今様をぞ歌ひける。藤次が妻女も催馬楽をぞ歌ひける。磯の禅師珍しからぬ身なれどもとて、貴賎と言ふ白拍子をぞ数へける。催馬楽、其駒も主に劣らぬ上手共なりければ、共に歌ひて遊びけり。春の夜の朧の空に雨降りて、殊更世間閑也。壁に立ち添ふ人も聞け、終日の狂言は千年の命延ぶなれば、我も歌ひ遊ばんとて、別の白拍子をぞ数へける。音声文字うつり、心も言葉も及ばれず。左衛門の尉、藤次、壁を隔てて是を聞きて、「あはれ打ち任せの座敷ならば、などか推参せざるべき」とて、心も空に憧るるばかりなり。白拍子過ぎければ、錦の袋に入れたる琵琶一面、纐纈の袋に入りたる琴一張取り出だして、琵琶をば其駒袋より取り出だして、緒合はせて、左衛門の尉の女房の前に置く。琴をば催馬楽取り出だし琴柱立て、静が前にぞ置きたりける。管絃過ぎければ、又左衛門の妻女心ある様の物語などせられつつ、今や言はまし言はましとぞ思ひける。「昔の京をば難波の京とぞ申しけるに、愛宕郡に都を立てられしより此の方、東海道を遙かにして、由比の、足利より東、相模の国をさか上り、由比の浦、ひつめの小林、鶴岡の麓に今八幡を斎ひ奉る。鎌倉殿にも氏神なれば、判官殿をなどか守り奉り給はざらん、和光同塵は結縁の始め、八相成道は利物の終、何事か御祈りの感応無からんや、当国一の無双にて渡らせ給へば、夕は参籠の輩門前市をなす。朝には参詣の輩肩を並べて踵を継ぐ。然れば日中には適ひ候ふまじ。堀殿の妻女、若宮の案内者にて御座します。妾も此の所巨細の者にて候へば、明日又夜をこめて御参詣候ひて思し召す御宿願も遂げさせ御座しまし、其の次に御腕差法楽し参らさせ給ひ候ひなば、鎌倉殿と判官殿と御仲も直らせ御座しまし候ひて思し召す儘なるべし。奥州に渡らせ給ひ候ふ判官殿も聞召し伝へさせ給はば、我が為に丹誠を致し参らせ給ふと聞召しては、如何ばかり嬉しとこそ思し召し候はんずれ。偶々斯かる次ならでは、争でかさる事候ふべき。理を枉げて御参詣候へ。余りに見奉りてよりいとど愚かに思ひ参らせず候へば、せめての事に申し候ふなり。御参詣候はば、御供申し候はん」とぞ賺しける。静是を聞きて、実にもとや思ひけん、磯の禅師を呼びて、「如何あるべき」と言ひければ、禅師もあはれさも有らまほしく思ひければ、「八幡の御託宣にてこそ候へ。是程深く思しける嬉しさよ、疾く疾く参らせ給へ」と言ひければ、「さらば昼は適ふまじ。寅の時に参りて、辰の時に形の如く舞ひて帰らばや」とぞ申しける。左衛門の女房、祐経にはや聞かせたくて、かくと言はせければ、祐経壁を隔てて聞く事なれば、使の出でぬ間に、馬に打ち乗り、急ぎ鎌倉殿へ参りて、侍につと入れば、君を初め参らせて、侍共「如何にや如何にや」と問ひ給へば、「寅の時の参詣、辰の時の御腕差」と高らかに申したりければ、鎌倉殿やがて御参詣有りけり。静舞ひぬると聞きて、若宮には門前市をなす。「拝殿廻廊の前、雑人奴等がえいやづきをして、物の差別も聞こえ候はず」と申しければ、小舎人を召して、「放逸に当たり、追ひ出だせ」と仰せける。源太承りて、「御諚ぞ」と言ひけれども用ゐず。小舎人原放逸に散々に打つ。男は烏帽子を打ち落し、法師は笠を打ち落さる。疵をつく者其の数有りけれども、「是程の物見を一期に一度の大事ぞ。傷はつくとも入らんず」とて身の成り行く末代知らずして、潛り入る間、中々騒動する事夥し。佐原の十郎申しけるは、「あはれ予て知り候はば、廻廊の真中に舞台を張りて参らせ奉り候はんずるものを」と申しけり。鎌倉殿聞召して、「あはれ是は誰が申しつるぞ」と御尋有りければ、「佐原の十郎申して候ふ」と申す。「佐原故実の者なり。尤もさるべし。やがて支度して参らせよ」と仰せられけり。十郎承りて、急ぎの事なりければ、若宮修理の為に積み置かれたる材木を一時に運ばせて、高さ三尺に舞台を張りて、唐綾、絞紗を以てぞ包みたる。鎌倉殿御感有りける。静を待つに、日は既に巳の時ばかりになるまで参詣なし。「如何なる静なれば、是程に人の心を尽くすらん」などぞ申しける。遙かに日闌けて、輿を舁きてぞ出で来たる。左衛門の尉、藤次が女房諸共に打ち連れて廻廊にぞ詣でたりける。禅師、催馬楽、其駒其の日の役人也ければ、静と連れて廻廊の舞台へ直る。左衛門の女房は同じ姿なる女房達三十余人引き具して、桟敷に入りける。静は神前に向ひて念誦してぞ居たりける。先づ磯の禅師、珍しからねども、法楽の為なれば、催馬楽に鼓打たせて、すきもののせうしやと言ふ白拍子を数へてぞ舞ひたりける。心も言葉も及ばれず。「さしも聞こえぬ禅師が舞だにも、是程に面白きに、まして静が舞はん時、如何に面白からん」とぞ申し合ひける。静、人の振舞、幕の引様、如何様にも鎌倉殿の御参詣と覚えたり。祐経が女房賺して、鎌倉殿の御前にて舞はすると覚ゆる。あはれ何ともして、今日の舞を舞はで帰らばやとぞ千種に案じ居たりける。左衛門の尉を呼びて申しけるは、「今日は鎌倉殿の御参詣と覚え候ふ。都にて内侍所に召されし時は、内蔵頭信光に囃されて舞ひたりしぞかし。神泉苑の池の雨乞の時は、四条のきすはらに囃されてこそ舞ひて候ひしか。此の度は御不審の身にて召し下され候ひしかば、鼓打ちなどをも連れても下り候はず。母にて候ふ人の形の如くの腕差を法楽せられ候はば、我々は都へ上り、又こそ鼓打用意して、わざと下りて法楽に舞ひ候はめ」とて、やがて立つ気色に見えければ、大名小名是を見て、興醒めてぞ有りける。鎌倉殿も聞召して、「世間狭き事かな。鎌倉にて舞はせんとしけるに、鼓打ちが無くて、遂に舞はざりけりと聞こえん事こそ恥かしけれ。梶原、侍共の中に鼓打つべき者やある。尋ねて打たせよ」と仰せられければ、景時申しけるは、「左衛門の尉こそ小松殿の御時、内裏の御神楽に召されて候ひけるに、殿上に名を得たる小鼓の上手にて候ふなれと申したりければ、さらば祐経打ちて舞はせよ」と仰せ蒙りて申しけるは、「余りに久しく仕らで鼓の手色などこそ思ふ程に候ふまじけれども、御諚にて候へば仕りてこそ見候はめ。但し鼓一ちやうにては叶ふまじ、鉦の役を召され候へ」と申したり。鉦は誰かあるべきと仰せられける。「長沼の五郎こそ候へ」と申しければ、「尋ね打たせよ」と仰せければ、「眼病に身を損じて、出仕仕らず」と申しければ、「さ候はば、景時仕りて見候はばや」と申せば、「なんぼうの、梶原は銅拍子ぞ」と左衛門に御尋ね有り。「長沼に次いでは梶原こそ」と申したりければ、「さては苦しかるまじ」とて、鉦の役とぞ聞こえける。佐原の十郎申しけるは、「時の調子は大事の物にて候ふに、誰にか音取を吹かせばや」と申せば、鎌倉殿「誰か笛吹きぬべき者やある」と仰せられければ、和田の小太郎申しけるは、「畠山こそ院の御感に入りたりし笛にて候へ」と申しければ、「如何でか畠山の賢人第一の、異様の楽党にならんは、仮初なりともよも言はじ」と仰せられければ、「御諚と申して見候はん」とて、畠山の桟敷へ行きけり。畠山に此の仔細を「御諚にて候ふ」と申しければ、畠山、「君の御内きりせめたる工藤左衛門鼓打ちて、八箇国の侍の所司梶原が銅拍子合はせて、重忠が笛吹きたらんずるは、俗姓正しき楽党にてぞ有らんずらむ」と打ち笑ひ、仰せに従ひ参らすべき由を申し給ひつつ、二人の楽党は所々より思ひ思ひに出で立ち出でられけり。左衛門の尉は、紺葛の袴に、木賊色の水干に、立烏帽子、紫檀の胴に羊の皮にて張りたる鼓の、六の緒の調を掻き合はせて、左の脇にかい挟みて、袴の稜高らかに差し挟み、上の松山廻廊の天井に響かせ、手色打ち鳴らして、残の楽党を待ちかけたり。梶原は紺葛の袴に山鳩色の水干、立烏帽子、南鐐を以て作りたる金の菊形打ちたる銅拍子に、啄木の緒を入れて、祐経が右の座敷に直りて、鼓の手色に従ひて、鈴虫などの鳴く様に合はせて、畠山を待ちけり。畠山は幕の綻より座敷の体を差し覗きて、別して色々しくも出で立たず、白き大口に、白き直垂に紫革の紐付けて、折烏帽子の片々をきつと引き立てて、松風と名づけたる漢竹の横笛を持ち、袴の稜高らかに引き上げて、幕ざと引き上げ、づと出でたれば、大の男の重らかに歩みなして舞台に上り、祐経が左の方にぞ居直りける。名を得たる美男なりければ、あはれやとぞ見えける。其の年廿三にぞなりける。鎌倉殿是を御覧じて、御簾の内より「あはれ楽党や」とぞ讚めさせ給ひける。時に取りては、おくゆかしくぞ見えける。静是を見て、よくぞ辞退したりける。同じくは舞ふ共、斯かる楽党にてこそ舞ふべけれ、心軽くも舞ひたりせば、如何に軽々しく有らんとぞ思ひける。禅師を呼びて、舞の装束をぞしたりける。松に懸かれる藤の花、池の汀に咲き乱れ、空吹く風は山霞、初音ゆかしき時鳥の声も、折知り顔にぞ覚えける。静が其の日の装束には、白き小袖一襲、唐綾を上に引き重ねて、白き袴踏みしだき、割菱縫ひたる水干に、丈なる髪高らかに結ひなして、此の程の歎きに面瘠せて、薄化粧眉ほそやかに作りなし、皆紅の扇を開き、宝殿に向ひて立ちたりける。さすが鎌倉殿の御前にての舞なれば、面映ゆくや思ひけん、舞ひ兼ねてぞ躊躇ひける。二位殿は是を御覧じて、「去年の冬、四国の波の上にて揺られ、吉野の雪に迷ひ、今年は海道の長旅にて、瘠せ衰へ見えたれども、静を見るに、我が朝に女有り共知られたり」とぞ仰せられける。静其の日は、白拍子多く知りたれども、殊に心に染むものなれば、しんむじやうの曲と言ふ白拍子の上手なれば、心も及ばぬ声色にて、はたと上げてぞ歌ひける。上下あと感ずる声雲にも響くばかりなり。近きは聞きて感じけり。声も聞こえぬもさこそあるらめとてぞ感じける。しんむしやうの曲半ばかり数へたりける所に祐経心なしとや思ひけん、水干の袖を外して、せめをぞ打ちたりける。静「君が代の」と上げたりければ、人々是を聞きて、「情無き祐経かな、今一折舞はせよかし」とぞ申しける。詮ずる所敵の前の舞ぞかし。思ふ事を歌はばやと思ひて、
しづやしづ賎のをだまき繰り返し昔を今になすよしもがな
吉野山嶺の白雪踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき
と歌ひたりければ、鎌倉殿御簾をざと下し給ひけり。鎌倉殿、「白拍子は興醒めたるものにて有りけるや。今の舞ひ様、歌の歌ひ様、怪しからず。頼朝田舎人なれば、聞き知らじとて歌ひける。賎のをだまき繰り返し」とは、頼朝が世尽きて九郎が世になれとや。あはれおほけなく覚えし人の跡絶えにけりと歌ひたりければ、御簾を高らかに上げさせ給ひて、軽々しくも讚めさせ給ふものかな。二位殿より御引出物色々賜はりしを、判官殿御祈りの為に若宮の別当に参りて、堀の藤次が女房諸共に打ち連れてぞ帰りける。明くれば都にとて上り、北白川の宿所に帰りてあれども、物をもはかばかしく見入れず、憂かりし事の忘れ難ければ、問ひくる人も物憂しとて、只思ひ入りてぞ有りける。母の禅師も慰め兼ねて、いとど思ひ深かりけり。明暮持仏堂に引き籠り、経を読み、仏の御名を唱へて有りけるが、かかる憂世にながらへても何かせんとや思ひけん、母にも知らせず、髪を切りて、剃りこぼし、天龍寺の麓に草の庵を結び、禅師諸共に行ひ澄ましてぞ有りける。姿心、人に勝れたり、惜しかるべき年ぞかし、十九にて様を変へ、次の年の秋の暮には思ひや胸に積りけん、念仏申し、往生をぞ遂げにける。聞く人貞女の志を感じけるとぞ聞こえける。