大夫判官四国へ赴き給ひし時、六人の女房達、白拍子五人、総じて十一人の中に、殊に御志深かりしは、北白川の静と言ふ白拍子、吉野の奥まで具せられたりけり。都へ返されて、母の禅師が許にぞ候ひける。判官殿の御子を妊じて、近き程に産をすべきにて有りしを、六波羅に此の事聞こえて、北条殿江間の小四郎を召して仰せ合はせられければ、「関東へ申させ給はでは適ふまじ」とて、早馬を以て申されければ、鎌倉殿梶原を召して、「九郎が思ふ者に静と言ふ白拍子近き程に産すべき由なり。如何あるべき」と仰せられければ、景時申しけるは、「異朝を訪ひ候ふにも、敵の子を妊じて候ふ女をば頭を砕き、骨を拉ぎ、髄を抜かるる程の罪科にて候ふなれば、若し若君にて御座しまし候はば、判官殿に似参らせ候ふとも、又御一門に似参らせ給ふとも、愚なる人にてはよも御座しまし候ふまじ。君の御代の間は何事か候ふべき。公達の御行方こそ覚束無く思ひ参らせ候へ。都にて宣旨院宣を御申し候ひてこそ下し給ひて、御座近く置き参らせさせ給ひ、御産の体御覧じて、若君にて渡らせ給ひ候はば、君の御計らひにて候ふべし。姫君にて候はば、御前に参らせさせ給ふべし」と申したりければ、さらばとて堀の藤次を御使にて都へ上られけり。藤次北条殿打ち連れ、院の御所に参りて、此の由を申しければ、院宣には、「先の勧修坊の如くにはあるべからず。時政が計らひに尋ね出だし、関東へ下すべき」と仰せ下されければ、北白河にて尋ねけれ共、遂に遁るべきには有らねども、一旦の悲しさに法勝寺と言ふ所に隠れ居たりしを尋ね出だして、母の禅師共に具足して、六波羅へ行き、堀の藤次受け取りて下らんとぞしける。磯の禅師が心の中こそ無慙なれ。共に下らんとすれば、目前憂き目を見んずらんと悲しき、又止まらんとすれば、只一人差し放つて、遥々下さん事も痛はしく、人の子五人十人持ちたるも、一人欠くれば歎くぞかし。唯一人持ちたる子なれば、止まりて悶えてあるべきとも覚えず、去りとても愚なる子かや、姿は王城に聞こえたり、能は天下第一の事なり。唯一人下さん事の悲しさに、預の武士の命をも背きて、徒跣にてぞ下りける。幼少より召し使ひし催馬楽、其駒と申しける二人の美女も主の名残を惜しみ、泣く泣く連れてぞ下りける。親家も道すがら様々に労りてぞ下りける。兎角して都を出で、十四日に鎌倉に著きたり。此の由申し上げければ、静を召して尋ぬべき事有りとて、大名小名をぞ召されける。和田、畠山、宇都宮、千葉、葛西、江戸、河越を始めとして、其の数を尽くして参る。鎌倉殿には門前に市を為して夥し。二位殿も静を御覧ぜられんとて、幔幕を引き、女房其の数参り集り給ひけり。藤次ばかりこそ静を具して参りたれ。鎌倉殿是を御覧じて、優なりけり、現在弟の九郎だにも愛せざりせばとぞ思し召しける。禅師も二人の女も連れたりけれども、門前に泣き居たり。鎌倉殿是を聞召して、「門に女の声として泣くは、何者ぞ」と御尋ね有りければ、藤次「静が母と二人の下女にて候ふ」と申しければ、鎌倉殿、「女は苦しかるまじ、召せ」とて召されけり。鎌倉殿仰せられけるは、「殿上人には見せ奉らずして、何故九郎には見せけるぞ。其の上天下の敵になり参らせたる者にてあるに」と仰せければ、禅師申しけるは、「静十五の年までは、多くの人仰せられしかども、靡く心も候はざりしかども、院の御幸に召し具せられ参られて、神泉苑の池にて雨の祈りの舞の時、判官殿に見え初められ参らせて、堀川の御所へ召され参らせしかば、唯仮初の御遊の為と思ひ候ひしに、わりなき御志にて、人々数多渡らせ給ひしかども、所々の御住居にてこそ渡らせ給ひしに、堀川殿に取り置かれ参らせしかば、清和天皇の御末、鎌倉殿の御弟にて渡らせ給へば、是こそ身に取りては、面目と思ひしに、今斯かるべしと、予ては夢にも争か知り候ふべき」と申しければ、人々是を聞きて、「「勧学院の雀は蒙求を囀る」といしう申したるものかな」とぞ讚められける。「さて九郎が子を妊じたる事は如何に」「それは世に隠れ無き事にて候へば、陣じ申すに及ばず、来月は産すべきにて候ふ」とぞ申しける。鎌倉殿梶原を召して、「あら恐ろし、それ聞け景時、既にえせ者の種を継がぬ先に、静が胎内を開けさせて、子を取つて亡へ」とぞ仰せける。静も母も是を聞きて、手に手を取り組みて、顔に顔を合はせて、声も惜しまず悲しみけり。二位殿も聞召して、静が心の中、さこそと思ひ遣られて、御涙に咽び給ふ。幔膜の中に落涙の体夥し。忌々しくぞ聞こえける。侍共承りて「斯かる情無き事こそ無けれ。さらぬだに関東は遠国とて恐ろしき事に言はるるに、さしも静を失ひて、名を流し給はん事こそ浅ましけれ」とぞ呟きける。此処に梶原此の事を聞きて、つい立ち御前に参り、畏まつてぞ居たりける。人々是を見て、「あな心憂や、又如何なる事をか申さんずらん」と耳を欹ててぞ聞きけるに、「静の事承り候ふ。少人こそ限り候はんずれ。母御前をさへ亡ひ参らせ給はん、其の御罪争か遁れさせ給ふべき。胎内に宿る十月を待つこそ久しく候へ。是は来月御産あるべきにて候へば、源太が宿所を御産所と定めて、若君姫君の左右を申し上べき」と申したりければ、御前なる人々袖を引き、膝を差し、「此の世の中は如何様、末代と言ひながら徒事は有らじ、是程に梶原が人の為に良き事申したる事はなし」とぞ申しあへり。静是を聞き、「都を出でし時よりして梶原と言ふ名を聞くだにも心憂かりしに、まして景時が宿所に有りて、産の時自然の事あらば、黄泉の障ともなるべし。あはれ同じくは堀殿の承りならば、如何に嬉しかりなん」と、工藤左衛門して申したりければ、鎌倉殿に申し入れければ、「理なれば易き事なり」と仰せられて、堀の藤次に返し賜ぶ。「時に取つて親家が面目」とぞ申しける。藤次は急ぎ宿所へ帰りて、妻女に会ひて言ひけるは、「梶原既に申し賜はつて候ひつるに、静の訴訟にて親家に返し預かり参らせ候ひぬ。判官殿聞召さるる所も有り。是によくよく労り参らせよ」とて、我は傍に候ひて、館をば御産所と名付けて、心ある女房達十余人付け奉りてぞもてなしける。磯の禅師は都の神仏にぞ祈り申しける。「稲荷、祇園、賀茂、春日、日吉山王七社、八幡大菩薩、静が胎内にある子を、仮令男子なりとも女子になして給べ」とぞ申しける。かくて月日重なれば、其の月にもなりにけり。静思ひの外に堅牢地神も憐み給ひけるにや、痛む事も無く、其の心付くと聞きて、藤次の妻女、禅師諸共に扱ひけり。殊に易くしたりけり。少人泣き給ふ声を聞きて、禅師余りの嬉しさに、白き絹に押し巻きて見れば、祈る祈りは空しくて、三身相応したる若君にてぞ御座しける。唯一目見て「あな心憂や」とて打ち臥しけり。静是を見て、いとど心も消えて思ひけり。「男子か、女子かや」と問へども答へねば、禅師の抱きたる子を見れば、男子なり。一目見て、「あら心憂や」とて衣を被きて臥しぬ。やや有りて、「如何なる十悪五逆の者の、偶々人界に生を受けながら、月日の光をだにも定かに見奉らずして、生れて一日一夜をだにも過さで、やがて冥途に帰らんこそ無慙なれ。前業限りある事なれば、世をも人をも恨むべからずと思へども、今の名残り別れの悲しきぞや」とて、袖を顔に押し当ててぞ泣き居たり。藤次御産所に畏まつて申しけるは、「御産の左右を申せと仰せ蒙つて候ふ間、只今参りて申し候はんずる」と申しければ、「とても逃るべきならねば、疾く疾く」とぞ言ひける。親家参りて此の由を申したりければ、安達の新三郎を召して、「藤次が宿所に静が産したり、頼朝が鹿毛の馬に乗りて行き、由井の浜にて亡ふべき」と仰せられければ、清経御馬賜はつて打ち出で、藤次の宿所へ入りて、禅師に向ひて、「鎌倉殿の御使に参りて候ふ。少人若君にて渡らせ給ひ候ふ由聞召して、抱き初め参らせよと御諚にて候ふ」と申しければ、「あはれ、はかなき清経かな。賺さば実と思ふべきかや。親をさへ失へと仰せられし敵の子、殊に男子なれば疾く失へとこそ有るらめ。暫し最後の出立せさせん」と申されければ、新三郎岩木ならねば、流石哀れに、思ひけるが、心弱く待ちけるが、斯くて心弱くて叶ふまじと思ひ、「事々しく候ふ。御出立も要り候ふまじ」とて、禅師が抱きたるを奪ひ取り、脇に挟み馬に打ち乗り、由井の浜に馳せ出でけり。禅師悲しみけるは、「存命へて見せ給へと申さばこそ僻事ならめ、今一度幼き顔を見せ給へ」と悲しみければ、「御覧じては中々思ひ重なり給ひなん」と情無き気色にもてなして、霞を隔て遠ざかる。禅師は裏無をだにも履き敢へず、薄衣も被かず、其駒ばかり具して、浜の方へぞ下りける。堀の藤次も禅師を訪ひて、後に付きてぞ下りける。静も共に慕ひけれ共、堀が妻女申しけるは、「産の則なり」とて、様々に諌め取り止めければ、出でつる妻戸の口に倒れ臥してぞ悲しみける。禅師は浜に尋ね、馬の跡を尋ぬれども、少人の死骸もなし、今生の契りこそ少なからめ、空しき姿を今一度見せ給へと悲しみつつ、渚を西へ歩みける所に、稲瀬河の端に、浜砂に戯れて、子供数多遊びけるに逢うて、「馬に乗つたる男の、くかと泣きたる子や棄てつる」と問へば、「何も見分け候はねども、あの水際の材木の上にこそ投げ入れ候ひつれ」と言ひける。藤次が下人下りて見ければ、只今までは蕾む花の様なりつる少人の、何時しか今は引きかへて、空しき姿尋ね出だして、磯の禅師に見せければ、押し巻きたる衣の色は変はらねども、跡無き姿となり果てけるこそ悲しけれ。「若しや若しやと浜の砂の暖かなる上に、衣の端を打ち敷きて置きたりけれども、事切れ果てて見えしかば、取りて帰りて、母に見せて悲しませんも中々罪深しと思ひて、此処に埋まんとては、浜の砂を手にて掘りたれども、此処もあさましき牛馬の蹄の通ふ所とて痛はしければ、さしも広き浜なれども、捨て置くべき所もなし。唯空しき姿を抱きて宿所にぞ帰りける。静是を受け取り、生を変へたるものを、隔て無く身に添へて悲しみけり。「哀傷とて、親の歎きは殊に罪深き事にて候ふなる物を」とて、藤次が計らひにて、少人の葬送、故左馬頭殿の為に作られたりける勝長寿院の後ろに埋みて帰りけり。「かかる物憂き鎌倉に一日にてもあるべき様なし」とて、急ぎ都へ上らんとぞ出で立ちける。