文治二年正月の末になりぬれば、大夫判官は、六条堀河に忍びて御座しける時も有り、又嵯峨の片辺に忍びて御座しける時も有りけるが、都には判官殿の御故に、人々多く損じければ、義経故民の煩ひとなり、人数多損ずるなれば、如何なる所にも有りと聞き、見ばやと思はれければ、今は奥州へ下らばやとて、別々になりける侍共をぞ召されける。十六人は一人も心変はり無くてぞ参りける。「奥州へ下らんと思ふに何れの道にかかりてかよからんずるぞ」と仰せられければ、各々申しけるは、「東海道こそ名所にて候へ、東山道は切所なれば、自然の事有らんずる時は、避けて行くべき方もなし。北陸道は越前の国敦賀の津に下りて、出羽国の方へ行かんずる船に便船してよかるべし」とて道は定め、「さて姿をば如何様にしてか下るべき」と様々に申しける中に、増尾の七郎申しけるは、「御心やすく御下りあるべきにて候はば、御出家候ひて、御下り候へ」と申しければ、「遂にはさこそ有らんずらめども、南都の勧修坊の千度出家せよと教化せられしを背いて、今身の置所無き儘に、出家しけると聞こえんも恥かしければ、此の度は如何にもして、様を変へもせで下らばや」と宣ひければ、片岡申しけるは、「さらば山伏の御姿にて御下り候へ」と申しければ、「いさとよ、それも如何有らんずらん、都を出でん日よりして、日吉山王、越前の国に気比の社、平泉寺、加賀の国下白山、越中国に蘆峅、岩峅、越後の国にはをき、国上、出羽の国には羽黒山とて、山社多き所なれば、山伏の行き逢ひて、一乗菩提の峰、釈迦岳の有様、八大金剛童子の護身さし、富士の峰、山伏の礼義などを問ふ時は、誰かきらきらしく答へて通るべき」と仰せければ、武蔵坊申しけるは、「それ程の事安き事候ふ。君は鞍馬に御座しまししかば、山伏の事は粗々御存じ候ふらん。常陸坊は園城寺に候ひしかば、申すに及ばず、弁慶は西塔に候ひしかば、一乗菩提の事粗々存じ仕りて候へば、などか陳ぜで候ふべき。山伏の勤には、懺法阿弥陀経をだにも、詳かに読み候ひぬれば、堅固苦しくも候ふまじ。只思し召し立たせ給へ」とぞ申しける。「どこ山伏と問はんずる時はどこ山伏とか言はんずる」「越後国直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより此方にては、羽黒山伏の熊野へ参り、下向するぞと申すべき。それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべき」と申しければ、「羽黒の案内知りたらん者や有る。羽黒にはどの坊に誰がしと言ふ者ぞと問はんずる時は如何せんずる」。弁慶申しけるは、「西塔に候ひし時、羽黒の者とて、御上の坊に候ふ者申し候ひしは、大黒堂の別当の坊に荒讚岐と申す法師に弁慶は少しも違はぬ由申し候ひしかば、弁慶をば荒讚岐と申し候ふべし。常陸坊をば小先達として筑前坊」とぞ申しける。判官仰せられけるは、「もとより法師なれば、御辺達は戒名せずとも苦しかるまじ。何ぞ男の頭巾篠県笈掛けたらんずるが、片岡或いは、伊勢の三郎、増尾などと言ひたらんずるは、似ぬ事にて有らんずるは如何に」「さらば皆坊号をせよ」とて、思ひ思ひに名をぞ付きける。片岡は京の君、伊勢の三郎をば宣旨の君、熊井太郎は治部の君とぞ申しける。さては上野坊、上総坊、下野坊などと言ふ名を付きてぞ呼びける。判官殿は殊に知る人御座しければ、垢の付きたる白き小袖二つに矢筈付けたる地白の帷子に、葛大口村千鳥を摺にしたる柿の衣に、古りたる頭巾、目の際までひつこうで、戒名をば、大和坊とぞ申しける。思ひ思ひの出立をぞしける。弁慶は大先達にて有りければ、袖短かなる浄衣に、褐の脛巾にごんづ履いて、袴の括高らかに結ひて、新宮様の長頭巾をぞ県けたりける。岩透と言ふ太刀あひぢかに差しなして、法螺貝をぞ下げたりける。武蔵坊は喜三太と言ふ下部を強力になして、県けさせたる笈の足に、猪の目彫りたる鉞に八寸ばかり有りけるをぞ結ひ添へたる。天頂には四尺五寸の大太刀を真横様にぞ置きたりける。心つきも出立も、あはれ先達やとぞ見えける。総じて勢は十六人、笈十挺有り。一挺の笈には鈴、独鈷、花皿、火舎、閼伽坏、金剛童子の本尊を入れたりけり。一挺の笈には、折らぬ鳥帽子十頭、直垂大口などをぞ入れたりける。残り八挺の笈には、皆鎧腹巻をぞ入れたりける。斯様に出で立ち給ふ事は正月の末、御吉日は二月二日なり。判官殿の奥州へ下らんとて、侍共を召して、「斯様に出で立つと雖も、猶も都に思ひ置く事のみ多し。中にも一条今出川の辺に有りし人は、未だ有りもやすらん。連れて下らんなど言ひしに、知らせずして下りなば、さこそ名残も深く候はんずらめ。苦しかるまじくは、連れて下らばや」と宣ひければ、片岡武蔵坊申しけるは、「御供申すべき者は、皆是に候ふ。今出河には誰か御渡り候ふやらん。北の方の御事候ふやらむ」と申しければ、此の頃の御身にては、流石にそよとも仰せられかねて、つくづくと打ち案じ思ひてぞ御座しける。弁慶申しけるは、「事も事にこそより候はんずれ、山伏の頭巾篠県に笈掛けて、女房を先に立てたらんずるは、さしも尊き行者にも有らじ。又敵に追ひ掛けられん時は、女房を静に歩ませ奉り、先に立てたらんはよかるまじく候ふ」と申しけるが、思へばいとほしや、此の人は久我の大臣殿の姫君、九つにて父大臣殿には後れ参らせ給ひぬ。十三にて母北の方に後れ参らせ給ひぬ。其の後は乳母の十郎権頭より外に頼む方ましまさず。容顔美しく、御情深く渡らせ給ひけれども、十六の御年までは幽なる御住なりしを、如何なる風の便にか此の君に見え初められ参らせ給ひしより此の方、君より外にまた知る人も渡らせ給はぬぞかし。惆悵の藤は松に離れて、便なし。三従の女は男に離れて力なし。また奥州へ下り給ひたるとても、情も知らぬ東女を見せ奉らんも痛はしく、御心の中も推量に朧けならではよも仰せられ出ださじ。さらば具し奉りて下らばやと思ひければ、「あはれ、人の御心としては、上下の分別は候はず。移れば変はる習ひの候ふに、さらば入らせ御座しまして、事の体をも御覧じて、誠にも下らせ御座しますべきにても候はば、具足し参らせ給ひ候へかし」と申しければ、判官世に嬉しげにて、「いざさらば」とて、柿の衣の上に薄衣被き給ひ御出ある。武蔵も浄衣に衣被きして、一条今出河の久我の大臣殿の古御所へぞ御座しましける。荒れたる宿のくせなれば、軒の忍に露置きて、籬の梅も匂有り。彼の源氏の大将の荒れたる宿を尋ねつつ、露分け入り給ひける古き好も今こそ思ひ知られける。判官をば中門の廊下に隠し奉りて、弁慶は御妻戸の際に参り、「人や御渡り候ふ」と問ひければ、「何処より」と答ふる。「堀河の方より」と申しければ、御妻戸を開けて見給へば、弁慶にてぞ有りける。日頃は人伝にこそ聞き給ひしに、余りの御嬉しさに北の方簾の際に寄り給ひて、「人は何処にぞ」と問ひ給へば、「堀河に渡らせ給ひ候ふが、「明日は陸奥へ御下り候ふ」と申せと仰せの候ひつるは、「日頃の御約束には如何なる有様もしてこそ具足し参らせ候はんと申しては候へども、道々も差し塞がれて候ふなれば、人をさへ具足し参らせて、憂き目を見せ参らせ候はん事いたはしく思ひ参らせ候へば、義経御先に下り候ひて、若し存命へて候はば、春の頃は必ず必ず御迎ひに人を参らせ候ふべし。それまでは御心長く待たせ御座しまし候へと申せ」とこそ仰せられ候ひつれ」と申しければ、「此の度だにも具して下り給はぬ人の、何の故にかわざと迎ひには賜はるべき。あはれ下り著き給はざらん先に、老少不定の習ひなれば、ともかくもなりたらば、とても遁れざりけるもの故に、など具して下らざりけんと後悔し給ひ候ふ共、甲斐有らじ。御志有りし程は、四国西国の波の上までも具足せられしぞかし。然れば何時しか変はる心のうらめしさよ。大物浦とかやより、都へ帰されし其の後は思ひ絶えたる言の葉を、又廻り来たるとかく慰め給ひしかば、心弱くも打ち解けて、二度憂き言の葉にかかりぬるこそ悲しけれ。申すに付けて如何にぞやと覚ゆれども、知られず知られで、我如何にもなりなば、後世までも実に残すは、罪深き事と聞く程に申し候ふぞ。過ぎぬる夏の頃より、心乱れて苦しく候ひしを、只ならぬとぞや人の申し候ひしか、月日に添へて夕も苦しくなりまされば、其の隠れあるまじ。六波羅へも聞こえて、兵衛佐殿は情無き人と聞けば、捕りも下されざらん。北白川の静は、歌を歌ひ、舞も舞へばこそ、一の咎は遁れけれ。我々はそれにも似るべからず。只今憂き名を流さん事こそ悲しけれ。何と言うても、人の心強さなれば力なし」と打ち口説き、涙も堰き敢へず覚えければ、武蔵坊も涙に咽びけり。燈火の明にて、常に住み馴れ給ひつる御障子の引手の元を見ければ、御手跡と覚えて、
つらからば我も心の変はれかしなど憂き人の恋しかるらん
とぞ遊ばされたりけるを、弁慶見て、未だ御事をば忘れ参らせさせ給はざりけると哀れにて、急ぎ判官にかくと申せば、判官さらばとて御座して、「御心短の御怨かな。義経も御迎ひに参りて候へ」とて、つと入り給ひたりければ、夢の心地して、問ふにつらさの御涙いとど堰き敢へ給はず。判官「さても義経が今の姿を御覧ぜられば、日来の御志も興醒めてこそ思し召され候はめ有らぬ姿にて候ふものを」と仰せられければ、「予しに聞きし御姿の、様の変はりたるやらん」と仰せられければ、「これ御覧じ候へ」とて、上の衣を押し除け給ひたれば、柿の衣に小袴、頭巾をぞ著給ひける。北の方見習はせ給はぬ御心には、げに疎からば恐ろしくも覚えぬべけれども、「扨我をば如何様に出で立たせて具し給ふべきぞや」と仰せられければ、武蔵坊「山伏の同道には、少人の様にこそ作りなし参らせ候はんずれ。容顔も御つくろひ候はば、苦しく御わたらせ候ふまじく候ふ。御年の程も良き程に見えさせ御座しまし候へば、つくろひ申すべく候ふが、只御振舞こそ御大事にて候はんずれ。北陸道と申すは、山伏の多き国にて候へば、花の枝などを、「これ少人へ」と参らせ言はん時は、男子の言葉を習はせ給ひて、衣紋掻き繕ひ、姿を男の如く御振舞候へ、此の年月の様に、たをやかに物恥かしき御心つき御振舞にては、堅固叶はせ給ひ候ふまじく候ふ」と申しければ、「然れば人の御徳に、習はぬ振舞をさへして下らんずると思ふ也。はや夜も更くるに、疾く疾く」と仰せられければ、弁慶御介錯にぞ参りける。岩透と言ふ刀を抜きて、清水を流したる御髪の丈にあまるを御腰に比べて情無くもふつと切る。末をば細く刈りなして、高く結ひ上げて、薄化粧に御眉細く作り、御装束は匂ふ色に花やうを引き重ねて、裏山吹一襲、唐綾の御小袖、播磨浅黄の帷を上にぞ著せ奉る。白き大口顕紋紗の直垂を著せ奉り、綾の脛巾に草鞋履かせ奉り、袴の括高く結ひ、白打出の笠をぞ著せ奉る。赤木の柄の刀にだみたる扇差し添へ、遊ばさねども漢竹の横笛を持ち奉る。紺地の錦の経袋に法華経の五の巻を入れて懸けさせ奉る。我が身一つだにも苦しかるべきに万の物を取り付け奉りたれば、しどけなげにぞ見え給ふ。是や此の王昭君が胡国の夷に具せられて下りけん心の中も、今こそ思ひ知られける。斯様に出で立ち給ひて、四間の御出居に燈火数多かき立てて、武蔵坊を側らに置きて、北の方を引き立て、御手を取りて彼方此方へ歩ませ奉り、「義経山伏に似るや、人は児に似たるぞ」と仰せける。弁慶申しけるは、「君は鞍馬に渡らせ給ひしかば、山伏にも馴れさせ給ひ候ひつれば、申すに及ばず候ふ。北の方は何時習はせ御座しまさねども、御姿少しも児にたがはせ御座しまし候はず。何事も戒力と申す御事にて渡らせ給ひ候ひける」と申す中にも、哀れを催す涙の頻りに零れけれども、さらぬ体にてぞ有りける。さる程に二月二日まだ夜深に、今出川を出でんとし給ふ。西の妻戸に人の音しける、如何なる者なるらんと御覧ずれば、北の方の御乳母に十郎権頭兼房、白き直垂に褐の袴著て、白髪交りの髻引き乱し、頭巾打ち著、「年寄り候ふとも、是非とも御伴申し候はん」とて参りたり。北の方「妻子をば誰に預け置きて参るべき」と宣へば、「相伝の御主を妻子に思ひ代へ参らすべきか」と申しも敢へず、涙に咽びけり。六十三になりける儘に、良き丈な山伏にてぞ有りける。兼房涙を仰へて申しけるは、「君は清和天皇の御末、北の方は久我殿の姫君ぞかし。只仮初に花紅葉の御遊、御物詣なりとも、ようの御車などこそ召さるべきに、遙々東の路に徒跣にて出で立ち給ふ御果報の程こそ、目も当てられず悲しけれ」とて、涙を流しければ、残りの山伏共も、「理なり、誠に世には神も仏もましまさぬか」とて各々浄衣の袖をぞ絞りける。さて御手に手を取り組みて歩ませ奉れども、何時か習はせ給はねば、只一所にぞ御座しける。をかしき事を語り出だして、慰め奉りて進め給ひけり。まだ夜深に今出川をば出でさせ給ひけれども、八声の鳥もしどろに鳴きて、寺々の鐘の声早打ち鳴らす程に明けけれども、漸々粟田口まで出で給ふ。武蔵坊片岡に申しけるは、「如何せん、いざや北の方の御足早くなし奉るべし。片岡に申せ」と言ひければ、御前に参りて申しける様は、「斯様に御渡り候はば、道行くべしとも存じ候はず。君は御心静かに御下り候へ。我等は御先に下り候ひて、秀衡に御所造らせて、御迎ひに参り候はん」と申して、御先に立ちければ、判官の仰せには、「如何に人の御名残惜しく思ひ参らせ候へ共、是等に棄てられては叶ふまじ。都の遠くならぬ先に、兼房御伴して帰れ」と仰せられて、棄て置きて進み給へば、さしも忍び給ひし御人の御声を立てて仰せられけるは、「今より後は道遠しとも悲しむまじ。誰に預け置きて、何処へ行けとて捨て給ふぞ」とて、声を立てて悲しみ給へば、武蔵又立ち帰り、具足し奉りける。粟田口を過ぎて、松坂近く成りければ、春の空の曙に霞に紛ふ雁の、微に鳴きて通りけるを聞き給ひて、判官かくぞ続け給ふ。
み越路の八重の白雲かき分けて羨ましくも帰るかりがね
北の方もかくぞ続け給ふ。
春をだに見捨てて帰るかりがねのなにの情に音をば鳴くらん
所々打ち過ぎければ、逢坂の蝉丸の住給ふ藁屋の床を来て見れば、垣根に忍交りの忘草打ち交り、荒れたる宿の事なれば、月の影のみ昔に変はらじと、思ひ知られて哀なり。軒の忍を取り給ひて奉り給へば、北の方都にて見しよりも、忍ぶ哀れの打ち添ひて、いとど哀れに思し召して、かくぞ続け給ふ。
住み馴れし都を出でて忍草置く白露は涙なりけり
かくて大津の浦も近くなる。春の日の長きに歩む歩むとし給へども、関寺の入相の鐘今日も暮れぬと打ち鳴らし、怪しの民の宿借る程になりぬれば、大津の浦にぞかかり給ひける。