義経記 - 31 忠信吉野に留まる事

十六人思ひ思ひに落ちかかる所に、音に聞こえたる剛の者有り。先祖を委しく尋ぬるに、鎌足の大臣の御末、淡海公の後胤、佐藤憲高が孫、信夫の佐藤庄司が二男、四郎兵衛藤原の忠信と言ふ侍有り。人も多く候ふに、御前に進み出で、雪の上に跪きて申しけるは、「君の御有様と我等が身を物によくよく譬ふれば、屠所に赴く羊歩々の思ひも如何でか是には勝るべき。君は御心安く落ちさせ給ひ候へ。忠信は是に止まり候ひて、麓の大衆を待ち得て、一方の防矢仕り、一先づ落し参らせ候はばや」と申しければ、「尤も志は嬉しけれども、御辺の兄継信が、屋嶋の軍の時、義経が為に命を棄て、能登殿の矢先に中つて失せしかども、是まで御辺の付き給ひたれば、継信も兄弟ながら未だある心地してこそ思ひつれ。年の内は思へば幾程もなし。人も命有り、我も存命へたらば、明年の正月の末、二月の初めには陸奥へ下らんずれば、御辺も下りて、秀衡をも見よかし。又信夫の里に留め置きし妻子をも、今一度見給へかし」と仰せられければ、「さ承り候ひぬ。治承三年の秋の頃、陸奥を罷り出で候ひし時も、「今日よりして君に命を奉りて、名を後代に上げよ。矢にも中り死にけると聞かば、孝養は秀衡が忠を致すべし。高名度々に及ばば、勲功は君の御計らひ」とこそ申し含められしか。命を生きて故郷へ帰れと申したる事も候はず。信夫に留め候ひし母一人候ふも、其の時を最期とばかりこそ申し切りて候ひしか。弓矢取る身の習ひ、今日は人の上、明日は御身の上、皆かくこそ候はん。君こそ御心弱く渡らせ給ひ候ふ共、人々それ良き様に申させ給ひ候へや」とぞ申しける。武蔵坊是を聞きて申しけるは、「弓矢取る者の言葉は綸言に同じ。言葉に出だしつる事を翻す事は候はじ。唯心安く御暇を賜はりたし」とぞ申しける。判官暫く物も仰せられざりけるが、やや有りて、「惜しむとも適ふまじ。さらば心に任せよ」とぞ仰せられける。忠信承りて嬉しげに思ひて、只一人吉野の奥にぞ止まりける。然れば夕には三光の星を戴き、朝にはけうくんの霧を払い、玄冬素雪の冬の夜も、九夏三伏の夏の朝にも、日夜朝暮片時も離れ奉らず仕へ奉りし御主の、御名残も今ばかりなりければ、日頃は坂上の田村丸、藤原の利仁にも劣らじと思ひしが、流石に今は心細くぞ思ひける。十六人の人々も、面々に暇乞して、前後不覚にぞなりにける。又判官、忠信を近く召して仰せられけるは、「御辺が帯きたる太刀は、寸の長き太刀なれば、流れに臨んでは叶ふまじ。身疲れたる時、太刀の延びたるは悪しかりなん。是を以て最後の軍せよ」とて、金作の太刀の二尺七寸有りけるに、剣の樋かきて、地膚心も及ばざるを取り出だして賜はりけり。「此の太刀寸こそ短けれども、身に於ては一物にてあるぞ、義経も身に変へて思ふ太刀なり。それを如可にと言ふに、平家の兵、兵船を揃へし時に、熊野の別当の、権現の御剣を申し下して賜はりしを、信心を致したりしに依りてや、三年に朝敵を平らげて、義朝の会稽の恥をも雪ぎたりき。命に代へて思へども、御辺も身に代へれば取らするぞ。義経に添うたりと思へ」とぞ仰せられける。四郎兵衛是を賜はりて戴き、「あはれ御帯刀や。是御覧候へ。兄にて候ひし継信は、屋嶋の合戦の時、君の御命に代はり参らせて候ひしかば、奥州の秀衡が参らせて候ひし、大夫黒賜はりて、黄泉にても乗り候ひぬ。忠信忠を致し候へば、御秘蔵の御帯刀賜はり候ひぬ。是を人の上と思召すべからず。誰も誰も皆かくこそ候はんずれ」と申しければ、各涙をぞ流しける。判官仰せられけるは、「何事か思ひ置く事のある」「御暇賜はり候ひぬ。何事を思ひ置くべしとも覚え候はず。但し末代までも弓矢の瑕瑾なるべし。少し申し上げたき事の候へ共、恐れをなして申さず候ふ」と申しければ、「最後にてあるに、何事ぞ、申せかし」と仰せを蒙り、跪きて申しけるは、「君は大勢にて落ちさせ給はば、身は是に一人止まり候ふべし。吉野の執行押し寄せ候ひて、「是に九郎判官殿の渡らせ給ひ候ふか」と申し候はんに、「忠信」と名乗り候はば、大衆は極めたる華飾の者にて候へば、大将軍も御座しまさざらん所にて、私軍益なしとて帰り候はん事こそ、末代まで恥辱になりぬべく候へ。今日ばかり清和天皇の御号を預かるべくや候ふらん」とぞ申しける。「尤もさるべき事なれども、純友将門も天命を背き参らせしかば、遂に亡びぬ。況してや言はん、「義経は院宣にも叶はず、日頃好有りつる者共心変はりしつる上、力及ばず、今日を暮し夕を明かすべき身にても無ければ、遂に遁れ無からんもの故に、清和の名を許しけり」と言はれん事は、他の謗をば、如何すべき」と仰せられければ、忠信申しけるは、「様にこそより候はんずれ。大衆押し寄せて候はば、箙の矢を散々に射尽くし、矢種尽きて、太刀を抜き、大勢の中へ乱れ入り切りて後に、刀を抜き、腹を切り候はん時、「誠に是は九郎判官と思ひ参らせ候はんずるなり。実には御内に佐藤四郎兵衛と言ふ者なり。君の御号を借り参らせて、合戦に忠を致しつるなり。首を持つて鎌倉殿の見参に入れよ」とて、腹掻き切り死なん後は、君の御号も何か苦しく候はん」とぞ申しける。「尤も最後の時、斯様にだに申し分けて死に候ひなば、何か苦しかるべき、殿原」と仰せられて、清和天皇の御号を預かる。是を現世の名聞、後世の訴とも思ひける。「御辺が著たる鎧は如何なる鎧ぞ」と仰せ有りければ、「是は継信が最後の時著て候ひし」と申せば、「それは能登守の矢にたまらず透りたりし鎧ぞ、頼む所なし。衆徒の中にも聞こゆる精兵の有りけるぞ。是を著よ」とて、緋威の鎧に白星の兜添へて賜はりけり。著たりける鎧脱ぎて、雪の上に差し置き、「雑色共に賜び候へ」と申しければ、「義経も著替へべき鎧もなし」とて、召しぞ替へられける。実に例無き御事にぞ有りける。「さて故郷に思ひ置く事は無きか」と仰せられければ、「我も人も衆生界の習ひにて、などか故郷の事思ひ置かぬ事候ふべき。国を出でし時、三歳になり候ふ子を、一人留め置きて候ひしぞ。彼の者心付きて、父は何処にやらんと尋ね候ふべきなれば、聞かまほしくこそ候へ。平泉を出でし時、君ははや御たち候ひしかば、鳥の鳴いて通る様に、信夫を打ち通り候ひしに、母の御所に立ち寄り、暇乞ひ候ひしかば、齢衰へて、二人の子供の袖にすがりて悲しみ候ひし事、今の様に覚へ候へ。「老の末になりて、我ばかり物を思ふ、子供に縁の無き身なりけり。信夫の庄司に過ぎ別れ、偶々近づきて不便にあたられし伊達の娘にも過ぎ分れ、一方ならぬ嘆きなれども、和殿原を成人させて、一所にこそ無けれども、国の内に有りと思へば、頼もしくこそ思ひつるに、秀衡何と思召し候ふやらん、二人の子供を皆御供せさせ給へば、一旦の恨みはさる事なれども、子供を成人せさせて、人数に思はれ奉るこそ嬉しけれ。隙無く合戦に会ふとも、臆病の振舞して、父の屍に血をあえし給ふなよ。高名して、四国西国の果に在すとも、一年二年に一度も命の有らん程は、下りて見もし、見えられよ。一人止まりて、一人絶えたるだに悲しきに、二人ながら遙々と別れては、如何せん」と申す声をも惜しまず泣き候ひしを振り捨てて、「さ承り候ふ」とばかり申して打ち出で候ふより此のかた、三四年遂に音信も仕らず。去年の春の頃、わざと人を下して、「継信討たれ候ひぬ」と告げて候ひしかば、斜ならず悲しみ候ひけるが、「継信が事はさて力及ばず、明年の春の頃にもなりなば、忠信が下らんと言ふ嬉しさよ。早今年の過ぎよかし」なんど待ち候ふなるに、君の御下り候はば、母にて候ふ者、急ぎ平泉へ参り、「忠信は何処に候ふぞ」と申さば、継信は屋嶋、忠信は吉野にて討たれけると承りて、如何ばかり歎き候はんずらん。それこそ罪深く覚えて候へ。君の御下り候ひて、御心安く渡らせ御座しまし候はば、継信忠信が孝養は候はずとも、母一人不便の仰せをこそ預かりたく候へ」と申しも果てず、袖を顔に押し当てて泣きければ、判官も涙を流し給ふ。十六人の人々も皆鎧の袖をぞ濡らしける。「さて一人留まるか」と仰せられければ、「奥州より連れ候ひし若党五十四人候ひしが、或いは死に或いは故郷へ返し候ひぬ。今五六人候ふこそ死なんと申すげに候へ」「さて義経が者は留まらぬか」と仰せられければ、「備前、鷲尾こそ留まらんと申し候へども、君を見つぎ参らせよとて留め申さず候ふ。御内の雑色二人も「何事も有らば一所にて候ふ」と申し候ふ間、留まるげに候ふ」と申しければ、判官聞召して、「彼等が心こそ神妙なれ」とぞ仰せける。