さて明けければ、衆徒講堂の庭に集会して、九郎判官殿は中院谷に御座すなり。いざや寄せて討ち取りて、鎌倉殿の見参に入らんとぞ申しける。老僧是を聞きて、「あはれ詮無き大衆の僉議かな。我が為の敵にも有らず。然ればとて朝敵にてもなし。只兵衛佐殿の為にこそ不和なれ。三衣を墨に染めながら、甲冑をよろひ、弓煎を取りて、殺生を犯さん事、且は隠便ならず」と諌めければ、若大衆是を聞きて、「それはさる事にて候へども、古治承の事を聞き給へ。高倉の宮御謀反に、三井寺など与し参らせ候ひしかども、山は心変はり仕り、三井寺法師は忠を致し、南都は未だ参らず、宮は奈良へ落ちさせ給ひけるが、光明山の鳥居の前にて流矢に中つて薨れさせ給ひぬ。南都は未だ参らずと雖も、宮に与し参らせたる咎によつて、太政の入道殿伽藍を滅ぼし奉りし事を、人の上と思ふべきに有らず、判官此の山に御座する由関東に聞こえなば、東国の武士共承りて、我が山に押し寄せて、欽明天皇の自ら末代までと建て給ひし所、刹那に焼き亡ぼさん事、口惜しき事には有らずや」と申しければ、老僧達も「此の上はともかくも」と言ひければ、其の日を待ち暮し、明くれば廿日の暁、大衆僉議の大鐘をぞ撞きにける。判官は中院谷と言ふ所に御座しけるが、雪空山に降り積みて、谷の小河もひそかなり。駒の蹄も通はねば、鞍皆具も付けず、下人共を具せざれば、兵糧米も持たれず、皆人労れに臨みて、前後も知らず臥しにけり。未だ曙の事なるに、遥かの麓に鐘の声聞こえければ、判官怪しく思召して、侍共を召して仰せられけるは、「晨朝の鐘過ぎて、又鐘鳴るこそ怪しけれ。此の山の麓と申すは欽明天皇の御建立の吉野の御岳、蔵王権現とて霊験無双の霊社にて渡らせ給ふ。並びに吉祥、駒形の八大金剛童子、勝手ひめぐり、しき王子、さうけこさうけの明神とて、甍を並べ給へる山上なり。然ればにや執行を始めとして、衆徒華飾世に越えて、公家にも武家にも従はず、必ず宣旨院宣は無くとも、関東へ忠節の為に甲冒をよろひ、大衆の僉議するかや」とぞ宣ひける。備前の平四郎は「自然の事候はんずるに、一先づ落つべきかや。又返して討死するか、腹を切るか其の時に臨んで周章狼狽きて叶はじ。良き様に人々計らひ申され候へや」と申しければ、伊勢の三郎「申すに付けて臆病の致す所に候へども、見えたる験も無くて、自害無役なり。衆徒に逢うて討死詮なし。唯幾度もあしきのよからん方へ、一先づ落ちさせ給へや」と申しければ、常陸坊是を聞きて、「いしくも申され候ふものかな。誰も斯くこそ存じ候へ。尤も」と申しければ、武蔵坊申しけるは、「曲事を仰せられ候ふぞとよ。寺中近所に居て、麓に鐘の音聞こゆるを、敵の寄するとて落ち行かんには、敵寄せぬ山々はよも有らじ。只君は暫し是に渡らせ御座しませ。弁慶麓に罷り下り、寺中の騒動を見て参り候はん」と申しければ、「尤もさこそ有りたけれども、御辺は比叡の山にて素生したりし人なり。吉野十津川の者共にも見知られてやあるらん」と仰せられければ、武蔵坊畏まつて申しけるは、「桜本に久しく候ひしかども、彼奴原には見知られたる事も候はず」と申しも敢へず、やがて御前を立ち、褐の直垂に、黒糸威の鎧著て、法師なれども、常に頭を剃らざりければ、三寸許り生ひたる頭に、揉鳥帽子に結頭して、四尺二寸有りける黒漆の太刀を、鴨尻にぞ帯きなしたり。三日月の如くにそりたる長刀杖につき、熊の皮の頬貫帯きて、咋日降りたる雪を時の落花の如く蹴散らし、山下を指して下りけり。弥勒堂の東、大日堂の上より見渡せば、寺中騒動して、大衆南大門に僉議し、上を下へ返したる。宿老は講堂に有り、小法師原は僉議の中を退つて逸りける。若大衆の鉄漿黒なるが、腹に袖付けて、兜の緒を締め、尻篭の矢、筈下りに負ひなして、弓杖に突き、長刀手々に提げて、宿老より先に立ち、百人ばかり山口にこそ臨みけれ。弁慶是を見て、あはやと思ひ、取つて返して、中院谷に参りて、「騒ぐまでこそ難からめ。敵こそ矢比になりて候へ」と申しければ、判官是を聞き給ひて、「東国の武士か吉野法師か」と仰せられければ、「麓の衆徒にて候ふ」と申しければ、「扨は適ふまじ。それ等は所の案内者なり。健者を先に立て、悪所に向ひて追ひ掛けられて叶ふまじ。誰か此の山の案内を知りたる者有らば、先立て一先づ落ちん」と仰せられける。武蔵坊申しけるは、「此の山の案内知る者朧げにても候はず、異朝を訪ふに、育王山、香風山、嵩高山とて三つの山有り。一乗とは葛城、菩提とは此の山の事なり。役の行者と申し奉りし貴僧精進潔斎し給ひて、優婆塞の、宮の移ひをも見し、鳥音を立てしかば、かはせの浪にや妙智剣と崇め奉りし、生身の不動立ち給へり。さる間此の山は不浄にてはおぼろげにても人の入る山ならず。それも立ち入りて見る事は候はねども、粗々承り候ふ。三方は難所にて候ふ。一方は敵の矢先、西は深き谷にて、鳥の音も幽なり。北は龍返しとて、落ちとまる所は山河の滾りて流るるなり。東は大和の国宇陀へ続きて候ふ。其方へ落ちさせ給へや」とぞ申しける。