都に春は来たれども、吉野は未だ冬篭る。況や年の暮れなれば、谷の小河も氷柱ゐて、一方ならぬ山なれども、判官飽かぬ名残を棄て兼ねて、静を是まで具せられたりける。様々の難所を経て、一二の迫、三四の峠、杉の壇と言ふ所迄分け入り給ひけり。武蔵坊申しけるは、「此の君の御伴申し、不足無く見するものは面倒なり。四国の供も一船に十余人取り乗り奉り給ひて、心安くも無かりしに、此の深山まで具足し給ふこそ心得ね。斯く御伴して歩き、麓の里へ聞こえなば、賎しき奴原が手に懸かりなどして、射殺されて名を流さん事は、口惜しかるべし。如何計らふ、片岡。いざや一先づ落ちて身をも助からん」と申しければ、「それも流石あるべき。如何ぞ、只目な見合はせそ」とこそ申しける。判官聞き給ひ、苦しき事にぞ思召しける。静が名残を棄てじとすれば、彼等とは仲を違ひぬ。又彼等が仲を違はじとすれば、静が名残棄て難く、とにかくに心を砕き給ひつつ、涙に咽び給ひけり。判官武蔵を召して仰せられけるは、「人々の心中を義経知らぬ事は無けれども、僅の契を捨て兼ねて、是まで女を具しつるこそ、身ながらも実に心得ね。是より静を都へ帰さばやと思ふは如何あるべき」。武蔵坊畏まつて申しけるは、「是こそゆゆしき御計らひ候よ。弁慶もかくこそ申したく候ひつれども、畏をなし参らせてこそ候へ。斯様に思召し立ちて、日の暮れ候はぬ先に、疾く疾く御急ぎ候へ」と申せば、何しに返さんと言ひて、又思ひ返さじと言はん事も侍共の心中如何にぞやと思はれければ、力及ばず「静を京へ帰さばや」と仰せられければ、侍二人雑色三人御伴申すべき由を申しければ、「偏へに義経に命を呉れたるとこそ思はんずれ。道の程よくよく労りて、都へ帰りて、各々はそれよりして何方へも心に任すべし」と仰せ蒙つて、静を召して仰せけるは、「志尽きて、都へ帰すには有らず。是迄引き具足したりつるも志愚かならぬ故、心苦しかるべき旅の空にも人目をも顧みず、具足しつれども、よくよく聞けば、此の山は役の行者の踏み初め給ひし菩提の峰なれば、精進潔斎せでは、如何でか叶ふまじき峰なるを、我が身の業に犯されて、是まで具し奉る事、神慮の恐れ有り。是より帰りて、禅師の許に忍びて、明年の春を待ち給へ。義経も明年も実に叶ふまじくは、出家をせんずれば、人も志有らば、共に様をも変へ、経をも誦み、念仏をも申さば、今生後生などか一所に有らざらん」と仰せられければ、静聞きもあへず、衣の袖を顔にあてて、泣くより外の事ぞ無き。「御志尽きせざりし程は、四国の波の上までも具足せられ奉る。契尽きぬれば、力及ばず、只憂き身の程こそ思ひ知りて悲しけれ。申すに付けても如何にぞや、過ぎにし夏の頃よりも唯ならぬ事とかや申すは、産すべきものにも早定めぬ。世に隠れも無き事にて候へば、六波羅へも鎌倉へも聞こえんずらん。東の人は情無きと聞けば、今に取り下されて、如何なる憂き目をか見んずらん。只思召し切りて、是にて如何にもなし給へ。御為にも自らが為にも、中々生きて物思はんよりも」と掻き口説き申しければ、「只理をまげて都へ帰り給へ」と仰せられけれども、御膝の上に顔をあて、声を立ててぞ泣き伏しける。侍共も是を見て、皆袂をぞ濡らしける。判官鬢の鏡を取り出だして、「是こそ朝夕顔を写しつれ。見ん度に義経見ると思ひて見給へ」とて賜びにけり。是を賜はりて、今亡き人の様に胸に当ててぞ焦れける。涙の隙よりかくぞ詠じける。見るとても嬉しくもなし増鏡恋しき人の影を止めねば
と詠みたれば、判官枕を取り出だして、「身を離さで是を見給へ」とて、かくなん。
急げども行きもやられず草枕静に馴れし心慣に
それのみならず、財宝を其の数取り出だして賜びけり。其の中に殊に秘蔵せられたりける、紫檀の胴に羊の革にて張りたりける啄木の調の鼓を賜はりて、仰せられけるは、「此の鼓は義経秘蔵して持ちつるなり。白川の院の御時、法住寺の長老の入唐の時、二つの重宝を渡されけり。めいぎよくと言ふ琵琶、初音と言ふ鼓是なり。めいぎよくは内裏に有りけるが、保元の合戦の時、新院の御前にて焼けてなし。初音は讚岐の守正盛賜はりて秘蔵して持ちたりけるが、正盛死去の後、忠盛是を伝へて持ちたりけるを、清盛の後は誰か持ちたりけん、屋嶋の合戦の時わざとや海へ入れられけん、又取り落してや有りけん、浪に揺られて有りけるを、伊勢の三郎熊手に懸けて取り上げたりしを、義経取つて鎌倉殿に奉る」とぞ宣ひける。静泣く泣く是を賜はりて持ちけり。今は何と思ふ共、止まるべきに有らずとて、勢を二つに分けけり。判官思ひ切り給ふ時は、静思ひ切らず、静思ひける時は、判官思ひ切り給はず、互に行きもやらず、帰りては行き、行きては帰りし給ひけり。嶺に上り、谷に下り行きけり。影の見ゆるまでは、静遙々と見送りけり。互に姿見えぬ程に隔てば、山彦の響く程にぞ喚きける。五人の者共やうやうに慰めて、三四の峠までは下りけり。二人の侍、三人の雑色を呼びて語りけるは、「各々如何計らふ。判官も御志は深く思ひ給ひつれ共、御身の置所無く思召して行方知らず失せさせ給ふ。我等とても麓に下り、落人の供し歩きては如何でか此の難所をば遁るべき。是は麓近き所なれば、棄て置き奉りたりとても、如何にもして麓に返り給はぬ事はよも有らじ。いざや一先づ落ちて身を助けん」とぞ言ひける。恥をも恥と知り、又情をも棄てまじき侍だにも、斯様に言ひければ、まして次の者共は、「如何様にも御計らひ候へかし」と言ひければ、或る古木の下に敷皮敷き、「是に暫く御休み候へ」とて申しけるは、「此の山の麓に十一面観音の立たせ給ひて候ふ所有り。親しく候ふ者の別当にて候へば、尋ねて下り候ひて、御身の様を申し合はせて、苦しかるまじきに候はば、入れ参らせて暫く御身をもいたはり参らせて、山伝ひに都へ送り参らせたくこそ候へ」と申しければ、「ともかくも良き様に各計らひ給へ」とぞ宣ひける。