とにもかくにも討手を上せよとて、北条四郎時政大将にて都へ上る。畠山は辞退申したりけれ共、重ねて仰せられければ、武蔵-七党相具して、尾張国熱田宮に馳せ向ふ。後陣は山田四郎朝政、一千余騎にて関東を門出すると聞こえけり。十一月一日大夫判官、三位を以て院へ奏聞せられけるは、「義経命を捨てて朝敵を平げ候ひしは、先祖の恥を清めんずる事にては候へども、逆鱗を止め奉らんが為なり。然れば朝恩として別賞をも行はるべき所に、鎌倉の源二位、義経に野心を存するに依つて、追討の為に官軍を放ち遣はす由承り候ふ。所詮逢坂関より西を賜はるべき由をこそ存じ候へども、四国九国ばかりを賜はつて罷り下り候はばや」とぞ申されける。是に依つて理なる朝旨なるべき間、公卿僉議有り。各々申されけるは、「義経が申す処も不便なれども、是に宣旨を下されば、源二位の憤深かるべし。又宣旨を下されずは、木曾が都にて振舞し如く、義経が振舞はば、世は世にても候ふべからず。所詮とても源二位討手を上せ候ふなる上は、義経に宣旨を賜び下して、近国の源氏共に仰せ付けて、大物にて討たせらるべく候ふや」と各々申されければ、宣旨を下されけり。斯かりければ、判官は西国へ下らんとて出で立ち給ふ。折節西国の兵共、其の数多く上りたりける中にも、緒方三郎維義が上りけるを召して「九国を賜はりて下るぞ、汝頼まれてや」と仰せられければ、維義申しけるは、「菊池次郎が折節上洛仕りて候ふなれば、定めて召され候はんずらん。菊池を誅せられば、仰せに従ひ候ふべき由申す。判官/は弁慶、伊勢三郎を召して、「菊池と緒方と何れにてあるらん」と仰せられければ、「とりどりにこそ候へども、菊池こそ猶も頼もしき者にて候へ。但し猛勢なる事は、緒方勝りて候ふらん」と申しければ、「菊池頼まれよ」と仰せられければ、菊池次郎申しけるは、「尤も仰せに従ひ参らせたく候へども、子にて候ふものを関東へ参らせて候ふ間、父子両方へ参り候はん事如何候ふべきや」と申したりければ、「さらば討て」とて、武蔵坊、伊勢三郎を大将軍にて、菊池が宿へ向けられける。菊池矢種ある程射尽くして、家に火をかけて自害してんげり。さてこそ緒方三郎参りけり。判官は叔父備前守を伴ひて、十一月三日に都を出で給ふ。「義経が国入の初めなれば、引き繕へ」とて、尋常にぞ出で立たれける。其の頃世にもてなしける磯の禅師が娘、静と言ふ白拍子を狩装束せさせてぞ召し具せられける。我が身は赤地の錦の直垂に小具足ばかりにて、黒き馬の太く逞しきが、尾髪飽くまで足らひたるに、白覆輪の鞍置いてぞ乗り給ふ。黒糸威の鎧著て、黒き馬に白覆輪の鞍置きて乗りたる者五十騎、萌黄威の鎧に鹿毛なる馬に乗りたる者五十騎、毛つるべに其の数打たせて、其の後は打込みに百騎、二百騎打ちける。以上其の勢一万五千余騎なり。西国に聞こえたる月丸と言ふ大船に、五百人の勢を取り乗せて、財宝を積み、二五疋の馬共立てて、四国路を志す。船の中、波の上の住こそ悲しけれ。伊勢をの海士の濡衣、乾す隙も無き便かな。入江入江の葦の葉に、繋ぎ置きたる藻苅舟、荒磯かけて漕ぐ時は、渚々に島千鳥、折知り顔にぞ聞こえける。霞隔てて漕ぐ時は沖に鴎の鳴く声も敵の鬨かと思ひける。風に任せ、潮に従ひて行く程に、伏し拝み奉れば、住吉、右手を見れば、西宮蘆屋の浦、生田の森を外処になし、和田の岬を漕ぎ過ぎて、淡路の瀬戸も近くなる。絵島が磯を右手になして漕ぎ行く程に、時雨の隙より見給へば、高き山のかすかに見えければ、船の中にて是を見て、「此の山はどの国の何処の山ぞ」と申しければ、「そんぢやう、其の国の山」と申せども、何処を見分けたる人もなし。武蔵坊は船端を枕にして臥したりけるが、がはと起きて、せがいの平板につい立ちて申しけるは、「遠くも無かりけるものを、遠き様に見なし給ひたりける。播磨国書写の岳の見ゆるや」とぞ申しける。「山は書写の山なれども、義経心にかかる事あるは、此の山の西の方より、黒雲の俄かに禅定へ切れて、かかる日だにも西へ傾けば、定めて大風と覚ゆるぞ。自然に風落ち来たらば、如何なる島蔭荒磯にも船を馳せ上げて、人の命を助けよや」とぞ仰せられける。弁慶申しけるは、「此の雲の景気を見て候ふに、よも風雲にては候はじ。君は何時の程に思召し忘れ給ひて候ふぞ。平家を攻めさせ給ひし時、平家の君達多く波の底に屍を沈め、苔の下に骨を埋み給ひし時仰せられ候ひし事は、今の様にこそ候へ。「源氏は八幡の護り給へば、事に重ねて日に添へ、安穏ならん」と仰せられ候ひし。如何様にても候へ、是は君の御為悪風とこそ覚え候へ。あの雲砕けて御船にかからば、君も渡らせ給ふまじ、我等も二度故郷へ帰らん事不定なり」とぞ申しける。判官是を聞召して、「何かさる事有らん」とぞ仰せられける。弁慶申しけるは、「君は度々弁慶が申す事を御用ゐ候はでこそ、御後悔は候へ。さ候はば、見参に入り候はん」とて、揉烏帽子引つこうで太刀長刀は持たざりけり。白箆に鵠の羽にて矧ぎたる矢に白木の弓取り添へ、舳につつ立ちて、人に向ひて物を言ふ様に、掻き口説きて申す様、「天神七代地神五代は神の御代、神武天皇より四十一代の帝以来、保元、平治とて両度の合戦に如かず。是等両度にも鎮西八郎御曹司こそ五人張に十五束を射給ひ、名を揚げ給ひし。それより後は絶えて久しくなりたり。さては源氏の郎等等の中に、弁慶こそ形の如くも、弓矢取つて人数に言はれたれ。風雲の方へ支へて射んずる程に、風雲ならば射るとも消え失せじ。天の待つ如くにてある間、平家の死霊ならばよもたまらじ。それに験無くは、神を崇め奉り、仏を尊み参らせて、祈り祭もよも有らじ。源氏の郎等ながら、俗姓正しき侍ぞかし。天津児屋根の御苗裔、熊野の別当弁せうが子、西塔の武蔵坊弁慶」と名告つて、矢継早に散々に射たりければ、冬の空の夕日明りの事なれば、潮も輝きて、中差何処に落ち著くとは見えねども、死霊なりければ、掻き消す様に失せにけり。船の中には是を見て、「あら恐ろしや武蔵坊だに無かりせば、大事出で来てまし」とぞ申し合ひける。「押せや、者共」とて漕ぐ程に、淡路国水島の東を幽に見て行く程に、先の山の北の腰に、又黒雲の車輪の様なるが出で来たる。判官「あれは如何に」と仰せられければ、弁慶「是こそ風雲よ」と申しも果てねば、大風落ち来たる。頃は十一月上旬の事なれば、霰交りて降りければ、東西の磯も見え分かず。麓には、風烈しく、摂津国武庫山颪、日の暮るるに随ひて、いとど烈しくなりにけり。判官楫取水手に仰せられけるは、「風の強きに帆を気長に引けよ」と仰せられければ、帆を下さんとすれ共、雨に濡れて蝉本つまりて下らず。弁慶片岡に申しけるは、「西国の合戦の時度々大風に会ひしぞかし。綱手を下げて引かせよ。苫を捲きて付けよ」と下知しければ、綱を下げ、苫を付けけれども、少しも効なし。河尻を出でし時、西国船の石多く取り入れたりければ、葛を以て中を結ひ、投げ入れたりけれども、綱も石も底へは沈み兼ねて、上に引かれて行く程の大風にてぞ有りける。船腹を叩く波の音に驚き、馬共の叫ぶこそ夥しき。今朝まではさりともと思ひける人、船底にひれ伏して、黄水を嘔くこそ悲しけれ。是を御覧じて、「只帆の中を破つて、風を通せ」とて、薙鎌を以て帆の中を散々に破つて風を通せども、舳には白波立てて、千の鉾を突くが如し。さる程に日も暮れぬ。先にも船が行かねば、篝火も焚かず。後にも船続かねば、海士の焚く火も見えざりけり。空さへ曇りたれば、四三の星も見えず。只長夜の闇に迷ひける。せめて我が身一人の御身ならば、如何せん。都におはしましける時、人知れず情深き人にておはしまししかば、忍びて通ひ給ひける女房廿四人とぞ聞こえし。其の中にも御志深かりしは、平大納言の御娘、大臣殿の姫君、唐橋の大納言、鳥養の中納言の御娘、此の人々は皆流石に優なる御事にてぞおはしける。其の外静などを始めとして、白拍子五人、惣じて十一人、一つ船に乗り給へる。都にては皆心々におはしけれ共、一所に差し集ひ、中々都にて、とにもかくにもなるべかりしものをと悲しみ給ひけり。判官心許なさに立ち出で給ひて、「今宵は何時にかなりぬらん」と宣へば、「子の時の終にはなりぬらん」と申せば、「あはれ疾くして夜の明けよかし。雲を一目見てとにもかくにもならん」などと仰せられける。「抑侍の中にも下部の中にも、器量の者やある。あの帆柱に上りて、薙鎌にて蝉の綱を切れ」とぞ仰せられける。弁慶、「人は運の極になりぬれば、日来おはせぬ心の著かせ給へる」と呟きける。判官、「それは必らず御辺を上れと言はばこそ。御辺は比叡の山育の者にて叶ふまじ。常陸坊は近江の湖にて、小舟などにこそ調練したりとも、大船には叶ふまじ。伊勢三郎は上野の者、四郎兵衛は奥州の者なり。片岡こそ常陸国鹿島行方と言ふ荒磯に素生したる者なり。志田三郎先生の浮島に有りける時も、常に行きて遊びけるに、「源平の乱出で来候はば、葦の葉を舟にしたりとも異朝へも渡りなん」と嘆じける。片岡上れ」と仰せられければ、承つて、やがて御前を立ちて、小袖直垂脱ぎ、手綱二筋撚りて胴に巻き、髻引き崩して押し入れ、烏帽子に額結ひて、刀の薙鎌取つて手綱に差し、大勢の中を掻き分けて、柱寄せに上り、手を掛けて見ければ、大の男の合はせて抱くに、指しも合はぬ程の柱の高さは、四五丈もあるらんと思ふ程なり。武庫山よりおろす嵐に詰められて、雪と雨とに濡れて氷り、只銀箔を伸べたるにぞ似ける。如何にもして登るべきとも覚えず。判官是を見給ひて、「あ、したり片岡」と力を添へられて、えいと声を出だし登り上がれば、するりと落ち落ち、二三度しけるが、命を棄てて上りける。二丈ばかり上り上がりて聞きければ、物の音船の中に答へて、地震の様になりて聞こえけり。あはや何やらんと聞く所に、浜浦より立ちたる風の、時雨につれて来たる。「それ聞くや楫取、後ろより風の来るぞ。波をよく見よ、風を切らせよ」と言ひも果てざりければ、吹きもて来て、帆にひしひしと当つるかとすれば、風につきてざざめかし走りけるが、何処とは知らず、二所に物のはたはたとなきければ、船の中に同音にわつとぞ喚きける。帆柱は蝉の本より二丈ばかり置きて、ふつと折れにけり。柱海に入りければ、船は浮き、先にづと馳せ延びける。片岡するりと下りて、船ばりを踏まへ、薙鎌を八の綱に引つかけて、かなぐり落ちたりければ、折れたる柱を風に吹かせて、終夜波に揺られける。さる程に暁にもなりければ、宵の風は鎮まりたるに、又風吹き来たる。弁慶「是は何処より吹きたる風やらん」と言へば、五十ばかりなる楫取出でて、「是は又昨日の風よ」と申せば、片岡申しけるは、「あは男、よく見て申せ。昨日は北の風吹きかはす。風ならば巽か南にてぞあるらん。風下は摂津国にてやあるらん」と申せば、判官仰せられけるは、「御辺達は案内を知らぬ者なり。彼等は案内者なれば、只帆を引きて吹かせよ」とて、弥帆の柱を立てて、弥帆を引きて走らかす。暁になりて、知らぬ干潟に御船を馳せ据ゑたり。「潮は満つるか、引くか」「引き候ふ」と申せば、「さらば潮の満つるを待て」とて、船腹波に叩かせて、夜の明くるを待ち給へば、陸の方に大鐘の声こそ聞こえけれ。判官「鐘の声の聞こゆるは、渚の近きと覚ゆるぞ。誰かある。船に乗りて行きて見よ」と仰せられければ、如何なる人にか承るべきと、固唾を呑む所に、「幾度なりとも、器量の者こそ行かんずれ。片岡行きて見よ」と仰せられける。承りて逆沢瀉の腹巻著て、太刀ばかり帯いて、究竟の船乗なりければ、端舟に乗り、相違無く磯に押し著けて上がりて見れば、海士の塩焼く苫屋の軒を並べたり。片岡寄りて問はばやと思ひけれども、我が身は心打ち解けねば、苫屋の前を打ち過ぎ、一町ばかり上がりて見れば、大きなる鳥居有り。鳥居に付きて行きて見れば、古りたる神を斎ひ参らせたる所なり。片岡近付て拝み奉れば、齢八旬に長けたる老人、只一人佇みにけり。「是はどの国の何処の所ぞ」と問ひければ、「此処に迷ふは常の事、国に迷ふこそ怪しけれ。さらぬだに此の所は二三日騒動する事の有るに、判官の、昨日是を出でて、四国へとて下り給ひしが、夜の間に風変はりたり。此の浦にぞ著き給ふらんとて、当国の住人豊島の蔵人、上野判官、小溝太郎承りて、陸に五百疋の名馬に鞍皆具置きて、磯には三十艘の杉舟に掻楯をかき、判官を待ち懸けたるぞ。若し其の方様の人ならば、急ぎ一先づ落ちて遁れ給へ」と仰せられければ、片岡さらぬ体にて申しけるは、「是は淡路国の者にて候ふが、一昨日の釣に罷り出で、大風に放されて、只今是に著きて候ふなり。有りの儘に知らせ給へ」と申しければ、古歌をぞ詠じ給ひける。
漁火の昔の光仄見えて蘆屋の里に飛ぶ蛍かなと詠じて掻き消す様に失せにけり。後に聞きければ、住吉の明神を斎ひ奉りたる所なり。憐みを垂れ給ひけるとぞ覚えける。片岡やがて帰り参りて、此の由申しければ、「さては船を押し出だせ」と仰せられけれども、潮は干たり、御船を出だし兼ねて、心ならず夜をぞ明かしける。