義経記 - 25 土佐坊義経の討手に上る事

二階堂の土佐坊召せとて召されける。鎌倉殿四間所におはしまして、土佐坊召され参る。梶原「土佐坊参りて候ふ」と申しければ、鎌倉殿「是へ」と召す。御前に畏まる。源太を召して、「土佐に酒」とぞ仰せられける。梶原殊の外にもてなしけり。鎌倉殿仰せられけるは、「和田畠山に仰せけれども、敢て是を用ゐず。九郎が都に居て院の御気色良きにより、世を乱さんとする間、河越太郎に仰せけれども、縁あればとて用ゐず。土佐より外に頼むべき者なし。しかも都の案内者なり。上りて九郎打ちて参らせよ。其の勲功には安房上総賜ぶ」とぞ仰せられける。土佐申しけるは、「畏まり承り候ふ。御一門を亡ぼし奉れと仰せ蒙り候ふこそ嘆き入り存じ候ふ」と申しければ、鎌倉殿気色大きに変はり、悪しく見えさせ給へば、土佐謹んでこそ候ひける。重ねて仰せられけるは、「さては九郎に約束したる事にや」と仰せられければ、土佐思ひけるは、詮ずる所、親の首を斬るも君の命なり。上と上との合戦には侍の命を捨てずしては打つべきに有らずと思ひ、「さ候はば仰せに従ひ候はん。恐にて候へば、色代ばかり」と申す。鎌倉殿「さればこそ、土佐より外に誰か向ふべきと思ひつるに少しも違はず。源太是へ参り候へ」と仰せられければ畏まつてぞ居たりける。「有りつる物は如何に」と仰せ有りければ、納殿の方よりして、身は一尺+二寸有りける手鉾の蛭巻白くしたるを細貝を目貫にしたるを持つて参る。「土佐が膝の上に置け」とぞ宣ひける。「是は大和の千手院に作らせて秘蔵して持ちたれども、頼朝が敵討つには柄長きものを先とす。和泉判官を討ちし時に、容易く首を取つて参らせたりしなり。是を持ちて上り、九郎が首を刺し貫き参らせよ」と仰せられけるは、情無くぞ聞こえける。梶原を召して、「安房、上総の者共、土佐が供せよ」とぞ仰せられける。承りて、詮無き多勢かな、させる寄合の楯つき軍はすまじい、狙ひ寄りて夜討にせんと思ひければ、「大勢は詮無く候ふ。土佐が手勢ばかりにて上り候はん」と申す。「手勢は如何程あるぞ」と宣へば、「百人ばかりは候ふらん」「さては不足なし」とぞ仰せられける。土佐思ひけるは、大勢を連れ上りなば、若し為果せたらん時、勲功を配分せざらんも悪し。為んとすれば安房、上総、畠多く田は少なし、徳分少なくて不足なりと、酒飲む片口に案じつつ、御引出物賜はりて、二階堂に帰り、家の子郎等呼びて申しけるは、「鎌倉殿より勲功をこそ賜はつて候へ。急ぎ京上りして所知入せん。疾く下りて用意せよ」とぞ申しける。「それは常々の奉公か。又何によりての勲功候ぞ」と申せば、「判官殿の討ちて参らせよとの仰せ承りて候ふ」と言ひければ、物に心得たる者は、「安房、上総も命有りてこそ取らんずれ。生きて二度帰らばこそ」と申す者も有り。或いは「主の世におはせば、我等もなどか世にならざるらん」と勇む者も有り。されば人の心は様々なり。土佐はもとより賢き者なれば、打ち任せての京上りの体にては叶ふまじとて、白布を以て、皆浄衣を拵へて、烏帽子に四手を付けさせ、法師には頭巾に四手を付け、引かせたる馬にも尾髪に四手付け、神馬と名づけ引きける。鎧腹巻唐櫃に入れ、粗薦に包み、注連引き熊野の初穂物と言ふ札を付けたり。鎌倉殿の吉日、判官殿の悪日を選びて、九十三騎にて鎌倉を立ち、其の日は酒匂の宿にぞ著きたりける。当国の一の宮と申すは、梶原が知行の所なり。嫡子の源太を下して、白栗毛なる馬白葦毛なる馬二疋に、白鞍置かせてぞ引きたる。是にも四手を付け、神馬と名づけたり。夜を日に継ぎて打つ程に、九日と申すに京へ著く。未だ日高しとて、四の宮河原などにて日を暮し、九十三騎三手に分けて、白地なる様にもてなし、五十六騎にて我が身は京へ入り、残りは引き下りてぞ入りにける。祇園大路を通りて、河原を打ち渡りて、東洞院を下りに打つ程に、判官殿の御内に信濃国の住人に江田源三と言ふ者有り。三条京極に女の許に通ひけるが、堀河殿を出でて行く程に、五条の東洞院にて鼻突にこそ行き会ひたれ。人の屋陰の仄暗き所にて見ければ、熊野詣と見なして、何処の道者やらんと、先陣を通して後陣を見れば、二階堂の土佐と見なして、土佐が此の頃大勢にて熊野詣すべしとこそ覚えねと思ひ案ずるに、我等が殿と鎌倉殿と下心よくもおはせざる間、寄りて問はばやと思ひけれども、有りの儘にはよも言はじ。中々知らぬ顔にて、夫奴を賺して問はばやと思ひて待つ所に、案の如く後れ馳せの者共、「六条の坊門油小路へは何方へ行くぞ」と問ひければ、云々に教へけり。江田追ひ著きて、「何の国に誰と申す人ぞ」と問ひければ、「相模国二階堂の土佐殿」とぞ申しける。後に来る奴原の佗びけるは、「さもあれ、只身の一期の見物は京とこそ言へ、何ぞ日中に京入はせで、道にて日の暮し様ぞ。我等共物は持ちたり、道は暗し」と呟きければ、今一人が言ひけるは、「心短き人の言ひ様かな。一日も有らば見んずらん」と言ひければ、今一人の夫が言ひけるは、「和殿原も今宵ばかりこそ静ならんずれ。明日は都は件の事にて大乱にて有らんずれ。されば我々までも如何有らんずらんと恐ろしきぞ」も申しければ、源三是を聞きて、是等が後に付きて物語をぞしたりけれ。「是も地体相模国の者にて候ふが、主に付きて在京して候ふが、我が国の人と聞けばいとどなつかしきぞや」なんどと賺されて、「同国の人と聞けば申し候ふぞ。げに鎌倉殿の御弟九郎判官殿を討ち参らせよとの討手の使ひを賜はつて上られ候ふ。披露は詮無く候ふ」と申しける。江田是を聞きて、我が宿所へ行くに及ばず、走り帰りて、堀河にて此の由を申す。判官少しも騒がず、「遂にしてはさこそ有らんずらん。さりながら御辺行き向ひて、土佐に言はんずる様は、「是より関東に下したる者は、京都の仔細を先に鎌倉殿へ申すべし。又関東より上らん者は、最前に義経が許に来たりて、事の仔細を申すべき所に、今まで遅く参る尾篭なり。急度参るべき」と、時刻を移さず召して参れ」と仰せられける。江田承りて、土佐が宿所、油小路に行きて見れば、皆馬共鞍下し、すそ洗ひなどしける。兵五六十人並居て、何とは知らず評定しける。土佐坊脇息にかかりてぞ居ける。江田行きて、仰せ含めらるる旨を言ひければ、土佐陳じ申しける様は、「鎌倉殿の代官に熊野参詣仕り候ふ。さしたる事は候はねども、最前に参じ候はんと存じ候ふ所に、途より風の心地にて候ふ間、今夜少し労り、明日参じて御目にかかり候ふべき旨、只今子にて候ふ者を進じ候はんと仕り候ふ。折節御使畏まり入り候ふ由申させ給へ」と申しければ、江田帰りて此の由を申す。判官日頃は侍共に向ひては、荒言葉をも宣はざりしが、今は大きに怒つて、「事も事にこそ依れ、異議を言はする事は、御辺の臆めたるに依つてなり。あれ程の不覚人の弓矢取る奉公をするか。其処罷り立ち候へ。向後義経が目にかかるな」とぞ仰せられける。宿所に帰り候はんとしけるが、此の事を聞きながら帰りては、臆めたるべしと帰らざりけり。武蔵、御酒盛半に、宿所へ帰りけるが、御内に人も無くやあるらんと思ひて参りたり。判官御覧じて、「いしうおはしたり。只今かかる不思議こそあれ。源三と言ふのさ者を遺はしたれば、あれが返事に従ひて帰り来たれる間、鼻を突かせて行方を知らず、御辺向ひて、土佐を召して参れ」と仰せ有りければ、畏まつて、「承り候ふ。もとより弁慶に仰せ蒙り候はん事を」とて、やがて出で立つ。「侍共数多召し具すべきか」と仰せられければ、弁慶「人数多にては敵が心づけ候はん」と出仕直垂の上に黒革威の鎧、五枚兜の緒を締め、四尺+五寸の太刀帯いて、判官の秘蔵せられたりける大黒と言ふ馬に乗り、雑色一人ばかり召し具して、土佐が宿へぞ打ち入りける。壷の中縁の際まで打ち寄せて、縁にゆらりと下り、簾をざつと打ち上げて見れば、郎等共七八十人座敷に列りて、夜討の評定する所に、弁慶多くの兵共の中を色代に及ばず踏み越えて、土佐が居たる横座にむずと鎧の草摺を居懸けて、座敷の体を睨み廻し、其の後土佐をはたと睨み、「如何に御辺は如何なる御代官なりとも、先づ堀河殿へ参りて、関東の仔細を申さるべきに、今まで遅く参る、尾篭の致る所ぞ」と言ひければ、土佐仔細を述べんとする所に、弁慶言はせも果てず、「君の御酒けにてあるぞ。鼻突き給ふな。いざさせ給へ」と手を取つて引つ立つる。兵共色を失ひて、土佐思ひ切らば、打ち合はんずる体なれ共、土佐が色損じて返答に及ばず、「やがて参り候はん」と申しける上は、侍共力及ばず、「暫く。馬に鞍置かせん」と言ひけるを、「弁慶が馬の有る上、今まで乗りつる馬に鞍置きて何にせん。早乗り給へ」とて、土佐も大力なれども、弁慶に引き立てられて、縁の際まで出でにけり。弁慶が下部心得て、縁の際に馬引き寄せたり。弁慶土佐を掻き抱き、鞍壷にがはと投げ乗せ、我が身も馬の尻にむずと乗り、手綱土佐に取らせて叶はじと思ひ、後ろより取り、鞭に鐙を合はせて、六条堀川に馳せ著き、此の由申し上げたりければ、判官南向の広廂に出で向ひ給ひて、土佐を近く召して、事の仔細を尋ねらる。土佐陳じ申しける様は、「鎌倉殿の御代官に熊野へ参り候ふ。明日払暁に参り候はんとて、今宵風の心地にて候ふ間、参ら/ず候ふ所に、御使重なり候ふ程に、恐れ存じ候ひて参りて候ふなり」。判官、「汝は義経追討の使とこそ聞く。争か争ふべき」。土佐、「努々存じ寄らざる事に候ふ。人の讒言にてぞ候ふらん。何れか君にて渡らせ給はぬ。権現定めて知見し坐し候はん」と申せば、「西国の合戦に疵を蒙り、未だ其の疵癒えぬ輩が、生疵持ちながら熊野参詣に苦しからぬか」と仰せられければ、「然様の人一人も召し具せず候ふ。熊野のみつの御山の間、山賊満ち満ちて候ふ間、若き奴原少々召し具して候ふ。それをぞ人の申し候はん。」判官、「汝が下部共の「明日京都は大戦にて有らんずるぞ」と言ひけるぞ。其はやは争ふ」と仰せられければ、土佐、「斯様に人の無実を申し付け候はんに於ては、私には陳じ開き難く候ふ。御免蒙り候ひて、起請を書き候はん」と申しければ、判官「神は非礼を享け給はずと言へば、よくよく起請を書け」とて、熊野の牛王に書かせ、「三枚は八幡宮に収め、一枚は熊野に収め、今三枚は土佐が六根に収めよ」とて焼いて飲ませ、此の上はとて許されぬ。土佐許されて出でざまに、「時刻移してこそ冥罰も神罰も蒙らめ。今宵をば過ぐすまじき物を」と思ひける。宿へ帰りて、「今宵寄せずは、叶ふまじきぞや」とて、各々犇めきける。判官の御宿には、武蔵を初めとして侍共申しけるは、「起請と申すは、小事にこそ書かすれ、是程の事に今宵は御用心あるべく候ふ」と申せば、判官、さらぬ体にて、「何事か有らん」と、事もなげにぞ仰せられける。「さりながら、今宵打ち解くる事候ふまじ」と申せば、判官、「今宵何事も有らば、只義経に任せよ。侍共皆々帰れ」と仰せられければ、各々宿所へぞ帰りける。判官は宵の酒盛に酔ひ給ひて、前後も知らず臥し給ふ。其の頃判官は静と言ふ遊女を置しき者にて、「是程の大事を聞きながら、斯様に打ち解け給ふも、只事ならぬ事ぞ」とて、端者を土佐が宿所へ遣はして、景気を見する。端者行きて見るに、只今兜の緒を締め、馬引つ立て、既に出でんとす。猶立ち入りて奥にて見すまして申さんとて、震ひ震ひ入る程に、土佐が下部是を見て、「此処なる女は只者ならず」と申しければ、「さもあるらん、召し捕れ」とて、彼の「女を捕へ、上げつ下しつ拷問す。暫くは落ちざりけれども、余りに強く攻められて、有りの儘に落ちにける。斯様の者を許しては悪しかるべしとて、斬りにけり。土佐が勢百騎、白川の印地五十人相語らひ、京の案内者として、十月十七日の丑の刻許りに六条堀河に押し寄せたり。判官の御宿所には、今宵は夜も更け、何事もあるまじきと各々宿へ帰る。武蔵坊、片岡六条なる宿へ行きてなし。佐藤四郎、伊勢三郎室町なる女の許へ行きてなし。根尾、鷲尾堀川の宿へ行きてなし。其の夜は下部に喜三太ばかりぞ候ひける。判官も其の夜は更くるまで酒盛して、東西をも知らず臥し給ひける。斯かる所に押し寄せ、鬨をつくる。され共御内には人音もせず。静敵の鯨波の声に驚き、判官殿を引き動かし奉り、「敵の寄せたる」と申せども、前後も知り給はず。唐櫃の蓋を開けて、著長引き出だし、御上に投げ掛けたりければ、がはと起き、「何事ぞ」と宣へば、「敵寄せて候ふ」ぞと申せば、「あはれ女の心程けしからぬ物はなし。思ふに土佐こそ寄せたるらめ。人は無きか、あれ斬れ」とぞ仰せられける。「侍一人もなし。宵に暇賜はつて、皆々宿へ帰り候ひぬ」と申せば、「さる事有らん。さるにても男は無きか」と仰せられければ、女房達走り廻りて、下部に喜三太ばかりなり。喜三太参れと召されければ、南面の沓脱に畏まつてぞ候ひける。「近ふ参れ」と召しけれ共、日頃参らぬ所なれば、左右無く参り得ず。「彼奴は時も時にこそよれ」と仰せられければ、蔀の際まで参りたり。「義経が風の心地にて、惘然とあるに、鎧著て馬に乗りて出でん程、出で向ひて、義経を待ち付けよ」と仰せられける。「承り候ふ」とて、喜三太走り向ひ、大引両の直垂に、逆沢瀉の腹巻著て、長刀ばかりをおつ取り、縁より下へ飛んで下りけるが、「あはれ御出居の方に、人の張替の弓や候ふらん」と申せば、「入りて見よ」と仰せける。走り入りて見ければ、白箆に鵠の羽を以て矧ぎたる、沓巻の上十四束に拵へて、白木の弓の握太なるを添へてぞ置きたる。あはれ、物やと思ひて、出居の柱に押し当て、えいやと張り、鐘を撞く様に、弦打ちやうちやうどして、大庭にぞ走り出でけり。下も無き下郎なりけれども、純友、将門にも劣らず、弓矢を取る事、養由を欺く程の上手なり。四人張りに十四束をぞ射ける。我が為にはよしと悦びて、門外に向ひ出でて、閂/の-木を外し、扉の片方押し開き、見ければ、星月夜のきらめきたるに、兜の星もきらきらとして、内冑透きて射よげにぞ見えたりける。片膝付いて、矢継早に指し詰め引き詰め散々に射る。土佐が真先駆けたる郎等五六騎射落し、矢場に二人失せにけり。土佐叶はじとや思ひけん、ざつと引きにけり。「土佐穢し。かくて鎌倉殿の御代官はするか」とて、扉の蔭に歩ませ寄て申しけるは、「今宵の大将軍は誰がしが承りたるぞ。名告り給へ。闇討ち無益なり。かく申すは鈴木党に、土佐坊昌俊なり。鎌倉殿の御代官」と名告りけれども、敵の嫌ふ事も有りと思ひ、音もせず。判官大黒と言ふ馬に金覆輪の鞍置かせて、赤地の錦の直垂に、緋威の鎧、鍬形打つたる白星の兜の緒を締め、金作りの太刀帯いて、切斑の征矢負ひて、滋籐の弓の真中握り、馬引き寄せ、召して、大庭に駆け出で、鞠の懸にて、「喜三太と召しければ、喜三太申しけるは、「下無き下郎、心剛なるによつて、今夜の先駆承つて候ふ。喜三太と申す者なり。生年廿三、我と思はん者は寄りて組め」とぞ申しける。土佐是を聞きて、安からず思ひければ扉の隙より狙ひ寄りて、十三束よつ引いてひやうど射る。喜三太が弓手の太刀打を羽ぶくらせめてつと射通す。かいかなぐりて捨て、喜三太弓をがはと投げ棄て、大長刀の真中取つて、扉左右へ押し開き、敷居を蹈まへて待つ所に敵轡を並べて喚いて駆け入る。以て開いて散々に斬る。馬の平首、胸板、前の膝を散々に斬られて、馬倒れければ、主は倒まに落つる所を長刀にて刺し殺し、薙ぎ殺す。斯かりければ、それにて多く討たれたり。されども大勢にて攻めければ、走り帰つて御馬の口に縋る。差し覗き、御覧ずれば、胸板より下は血にぞなりたる。「汝は手を負うたるか」「さん候」と申す。「大事の手ならば退け」と仰せられければ、「合戦の場に出でて死ぬるは法」と申せば、「彼奴は雄猛者」とぞ宣ひける。「何ともあれ、汝と義経とだに有らば」とぞ仰せられける。され共判官も駆け出で給はず。土佐も左右無く駆けも入らず。両方軍はしらけたる所に武蔵坊六条の宿所に臥したりけるが、今宵は何とやらん、夜が寝られぬぞや。さても土佐が京にあるぞかし。殿の方覚束なし。廻りて帰らばやと思ひければ、草摺のしどろなる、兵土鎧の札良きに大太刀帯き、棒打ち突きて、高足駄履きて、殿の方へからりからりとしてぞ参りける。大門は閂/の-木を鎖されたるらんと思ひて、小門より差し入り、御馬屋の後ろにて聞きければ、大庭に馬の足音六種震動の如し。あら心憂や、早敵の寄せたりける物をと思ひて、御馬屋に差し入りて見れば、大黒はなし。今宵の軍に召されけると思へば、東の中門につと上りて見れば、判官喜三太ばかり御馬副にて、只一騎控へ給へり。弁慶是を見て、「あら心安や、さりながら憎さも憎し。さしも人の申しつるを聞き給はで、胆潰し給ひ候はん」と呟き言して、縁の板踏みならし、西へ向きてどうどうと行きける。判官あはやと思召して、差し覗き見給へば、大の法師の鎧著たるにてぞ有りける。土佐奴が後ろより入りけるかとて、矢差し矧げて馬打ち寄せ、「あれに通る法師は誰か。名告れ。名告らで誤ちせられ候ふな」と仰せられけれ共、札良き鎧なりければ、左右無く裏は掻かじなどと思ひて、音もせず。射損ずる事も有りと思召し、矢をば箙に差し、太刀の柄に手を掛け、すはと抜いで、「誰ぞ、名告らで斬らるな」とてやがて近づき給へば、「此の殿は打物取りては樊噲、張良にも劣らぬ人ぞ」と思ひて、「遠くは音にも聞き給へ。今は近し、目にも見給へ。天児屋根の御苗裔、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とて、判官と御内に一人当千の者にて候ふ」とぞ申しける。判官「興ある法師の戯かな、時にこそよれ」とぞ仰せられける。「さは候へども、仰せ蒙り候へば、此処にて名告り申すべき」と猶も戯をぞ申しける。判官、「されば土佐奴に寄せられたるぞ」。弁慶、「さしも申しつる事を聞召し入れ候はで、御用心なども候はで、左右無く彼奴原を門外まで、馬の蹄を向けさせぬるこそ安からず候へ」と申しければ、「如何にもして彼奴を生捕つて見んずる」と仰せられければ、「只置かせ給へ。しやつが有らん方に弁慶向ひて、掴んで見参に入れ候はん」と申しければ、「人を見て、人を見るにも弁慶が様なる人こそ無けれ。喜三太奴に軍せさせたる事は無けれども、軍には誰にも劣らじ。大将軍は御辺に奉るぞ。軍は喜三太奴にせさせよ」と仰せられける。喜三太櫓に上がりて、大音上げて申しけるは、「六条殿に夜討ち入りたり。御内の人々は無きか。在京の人は無きか。今夜参らぬ輩は、明日は謀反の与党たるべし」と呼ばはりける。此処に聞き付け、彼処に聞き付け京白川一つになりて騒動す。判官殿の侍共を始めとして、此処彼処より馳せ来たる。土佐が勢を中に取り篭めて散々に攻む。片岡八郎、土佐が勢の中に駆け入りて、首二つ、生捕り三人して見参に入る。伊勢三郎、生捕り二人、首三つ取りて参らする。亀井六郎、備前平四郎二人討ちて参る。彼等を始めとして、生捕り分捕思ひ思ひにぞしける。其の中にも軍の哀れなりしは、江田源三にて止めたり。宵には御不審にて京極に有りけるが、堀河殿に軍有りと聞きて、馳せ参り、敵二人が首取りて、「武蔵坊、明日見参に入れて賜び候へ」と言ひて、又軍の陣に出でけるが、土佐が射ける矢に首の骨箆中責めてぞ射られける。矧げたる矢を打ち上げて、引かん引かんとしけるが、只弱りにぞ弱りける。太刀を抜き、杖に突き、はうはう参り、縁へ上がらんとしけれども、上がり兼ねて、「誰か御渡り候ふ」と申しければ、御前なる女房立ち出でて、「何事ぞ」と答へければ、「江田源三にて候ふ。大事の手負うて、今を限りと存じ候ふ。見参に入れて賜び候へ」と申しければ、判官是を聞き給ひて、浅ましげに思召して、火を点し差し上げて御覧ずれば、黒津羽の矢の夥しかりけるを、射立てられてぞ伏したりける。判官、「如何に人々」と仰せられければ、息の下にて申す様、「御不審蒙りて候へ共、今は最後にて候ふ。御赦免を蒙り、黄泉を心安く参り候はばや」と申しければ、「もとより汝久しく勘当すべきや。只一旦の事をこそ言ひつるに」と仰せられて、御涙に咽び給へば、源三世に嬉しげに打ち頷きたり。鷲尾七郎近く有りけるが、「如何に源三、弓矢取る者の矢一つにて死するは無下なる事ぞ。故郷へ何事も申し遺はさぬぞ」と言ひけれども、返事もせず。「和殿の枕にし給ふは君の御膝ぞ」、源三「御膝の上にて死に候へば、何事をか思ひ置き候ふべきなれども、過ぎにし春の頃親にて候ふ者の、信濃へ下りしに、「構へて暇申して、冬の頃は下れ」と申しし間、「承る」と申して候ひしに、下人が空しき死骸を持ちて下り、母に見せて候はば、悲しみ候はんずる事こそ、罪深く覚えて候へ。君都におはしまさん程は、常の仰せを蒙りたく候へ」と申せば、「それは心安く思へ。常々問はするぞ」と仰せられければ、世に嬉しげにて涙を流しける。限りと見えしかば、鷲尾寄りて念仏を進めければ、高声に申し、御膝の上にして、二十五にて亡せにけり。判官、弁慶、喜三太を召して「軍は如何様にしなしたるぞ」と仰せられければ、「土佐が勢は二三十騎ばかりこそ」と申せば、「江田を討たせたるが安からぬに、土佐奴が一類一人も漏らさず、命な殺しそ。生捕りて参らせよ」と仰せられける。喜三太申しけるは、「敵射殺すこそ安けれ。生きながら取れと仰せ蒙り候ふこそ、以ての外の大事なれ。さりながらも」とて、大長刀持つて走り出でければ、弁慶「あはや、彼奴に先せられて叶はじ」と鉞引提げて飛んで出で、喜三太は卯の花垣の先をつい通りて、泉殿の縁の際を西を指してぞ出でける。此処に黄鵇毛なる馬に乗りたる者、馬に息つがせて、弓杖にすがりて控へたり。喜三太走り寄つて、「此処に控へたるは誰そ」と問ひければ、「土佐が嫡子、土佐太郎生年十九」と名乗つて歩ませ向ふ。「是こそ喜三太よ」とて、づと寄る。叶はじとや思ひけん、馬の鼻を返して落ちけるを、余すまじとて追つ掛けたり。早打の長馳したる馬の、終夜軍には責めたりけり。揉め共揉め共一所にて躍る様なり。大長刀を以て開いてちやうど斬り、左右の烏頭づと斬る。馬倒まに転びければ、主は馬より下にぞ敷かれける。取つて押へて、鎧の上帯解きて、疵一つも付けず、搦めて参りけり。下部に仰せ付け、御馬屋の柱に立ちながら、結ひ付けさせられける。弁慶喜三太に先をせられて、安からず思ひて、走り廻る所に、南の御門に節縄目の鎧著たる者一騎控へたり。弁慶走り寄つて、「誰そ」と問ふ。「土佐が従兄弟、伊北五郎盛直」とぞ申しける。「是こそ弁慶よ」とて、づと寄る。叶はじとや思ひけん、鞭を当ててぞ落ちける。「穢し、余すまじ」とて追つ掛けて、大鉞を以て開いてむずと打つ。馬の三頭に猪の目の隠るる程打ち貫き、えいと言うてぞ引きたりける。馬こらへずしてどうど伏す。主を取つて押へて、上帯にて搦めて参りける。土佐太郎と一所に繋ぎ置く。昌俊は味方の討たれ、或いは落ち行くを見て、我は太郎、五郎を捕られて、生きて何かせんとや思ひけん、其の勢十七騎にて思ひ切つて戦ひけるが、叶はじとや思ひけん、徒武者駆け散らして、六条河原まで打つて出で、十七騎が十騎は落ちて、七騎になる。賀茂河を上りに鞍馬を指して落ち行く。別当は判官殿の御師匠、衆徒は契深くおはしければ、後は知らず、判官の思召す所もあれとて、鞍馬百坊起こつて、追手と一つになりて尋ねけり。判官「無下なる者共かな。土佐奴程の者を逃しける無念さよ。しやつ逃すな」と仰せられければ、堀河殿をば在京の者共に預けて判官の侍一人も残らず追つ掛けける。土佐は鞍馬をも追ひ出だされて、僧正が谷にぞ篭りける。大勢続いて攻めければ、鎧をば貴船の大明神に脱ぎて参らせ、或る大木の空洞にぞ逃げ入りける。弁慶片岡は土佐を失ひて、「何ともあれ、是を逃しては良き仰せはあるまじ」とて、此処、彼処尋ね歩く程に、喜三太向ひなる伏木に上りて立ちたり。「鷲尾殿の立ち給へる後ろの木の空洞に、物の働く様なる事こそ怪しけれ」と申せば、太刀打ち振りてづと寄りて見れば、土佐叶はじとや思ひけん、木の空洞よりづと出でて、真下りに下る。弁慶喜びて、大手を拡げて、「憎い奴が何処まで」とて追つ掛く。聞こゆる足早なりければ、弁慶より三段ばかり先立つ。遥かなる谷の底にて、片岡「此処に待つぞ。只遺こせよ」とぞ申しける。此の声を聞きて、叶はじとや思ひけん、岨をかい廻りて上りけるを、忠信が大雁股を差し矧げて、余すまじとて、下り矢先に小引に引きて差し当てたる。土佐は腹をも切らで、武蔵坊にのさのさと捕られける。さて鞍馬へ具して行き、東光坊より大衆五十人付けてぞ送られける。「土佐具して参りて候ふ」と申しければ、大庭に据ゑさせ、縁に出でさせ給ひて、「如何に昌俊、起請は書くよりして験あるものを、何しに書きたるぞ。生きて帰りたくは返さんずる、如何」と仰せられければ、頭を地に付けて、「猩々は血を惜しむ。犀は角を惜しむ。日本の武士は名を惜しむ」と申す事の候ふ。生きて帰りて侍共に面を見えて何にかし候ふべき。只御恩には疾く疾く首を召され候へ」とぞ申しける。判官聞召して、「土佐は剛の者にて有りけるや。さてこそ鎌倉殿の頼み給ふらめ。大事の召人を切るべきやらん、斬るまじきやらん、それ武蔵計らへ」と仰せられければ、「大力を獄屋に篭めて、獄屋踏み破られて詮なし。やがて斬れ」とて、喜三太に尻綱取らせて、六条河原に引き出だし、駿河次郎が斬手にて斬らせけり。相模八郎、同太郎は十九、伊北五郎は三十三にて斬られけり。討ち漏らされたる者共、下りて鎌倉殿に参りて、「土佐は仕損じて、判官殿に斬られ参らせ候ひぬ」と申せば、「頼朝が代官に参らせたる者を、押へて斬る事こそ遺恨なれ」と仰せられければ、侍共「斬り給ふこそ理よ、現在の討手なれば」とぞ申しける。