義経記 - 24 義経平家の討手に上り給ふ事

御曹司寿永+三年に上洛して平家を追ひ落し、一谷、八嶋、壇浦、所々の忠を致し、先駆け身をくだき、遂に平家を攻め亡ぼして、大将軍前の内大臣宗盛父子を生捕り、三十人具足して上洛し、院内の見参に入つて後、去ぬる元暦+元年に検非違使五位尉になり給ふ。大夫判官、宗盛親子具足して、腰越に著き給ひし時、梶原申しけるは、「判官殿こそ大臣殿父子具足して、腰越に著かせ給ひて候ふなれ。君は如何御計らひ候ふ。判官殿は身に野心を挟みたる御事にて候ふ。其の儀如何にと申すに一谷の合戦に庄三郎高家、本三位の中将生捕り奉り、三河殿の御手に渡りて候ふを、判官大きに怒り給ひて、三河殿は大方の事にてこそあれ、義経が手にこそ渡すべきものを、奇怪の者の振舞かな。寄て討たんと候ひしを、景時が計らひに土肥次郎が手に渡してこそ判官は静まり給ひしか。其の上「平家を打ち取りては、関より西をば義経賜はらん。天に二つの日なし。地に二人の王なしと雖も、此の後は二人の将軍や有らんずらん」と仰せ候ひしぞかし。かくて武功の達者一度も慣れぬ船軍にも風波の難を恐れず、舟端を走り給ふ事鳥の如し。一谷の合戦にも城は無双の城なり。平家は十万余騎なり。味方は六万五千余騎なり。城は無勢にて寄手は多勢こそ、軍の勝負は決し候ふに、是は城は多勢、案内者寄手は無勢、不案内の者共なり。容易く落つべきとも見え候はざりしを、鵯鳥越とて鳥獣も通ひ難き巌石を無勢にて落し、平家を遂に追ひ落し給ふ事は凡夫の業ならず。今度八嶋の軍に大風にて浪おびたたしくて、船の通ふべき様も無かりしを、只船五艘にて馳せ渡し、僅に五十余騎にて、憚る所無く八嶋の城へ押し寄せて、平家数万騎を追ひ落し、壇浦の詰軍までも遂に弱げを見せ給はず。漢家本朝にも是程の大将軍如何であるべきとて、東国西国の兵共一同に仰ぎ奉る。野心を挿みたる人にておはすれば、人ごとに情をかけ、侍までも目をかけられし間、侍共「あはれ侍の主かな。此の殿に命を奉る事は塵よりも惜しからじ」と申して、心をかけ奉りて候ふ。それに左右無く鎌倉中へ入れ参らせ給ひて御座候はん事いぶせく候ふ。御一期の程は君の御果報なれば、さり共と存じ候ふ。御子孫の世には如何候はんずらん。又御一期と申しても何とか御座候はん」と申しければ、君此の由を聞召して、「梶原が申す事は偽などは有らじなれども、一方を聞きて相計らはん事は政道のけがるる所也。九郎が著きたるなれば、明日是にて梶原に問答せさせ候ふべし」とぞ仰せられける。大名小名是を聞きて、「今の御諚の如くにては、判官もとより誤り給はねば、若し助かり給ふ事も有りなん。されども景時が逆櫓立てんとの論の止まざる所に壇浦にて互に先駆け争ひて、矢筈を取り給ひし、其の遺恨に斯様に讒言申せば、遂には如何有らんずらん」と申しける。召し合はせんと仰せられ、言ふ時に梶原甘縄の宿所に帰りて、偽申さぬ由起請を書きて参らせければ、此の上はとて大臣殿をば腰越より鎌倉に受け取り、判官をば腰越に止めらるる。判官「先祖の恥を清め、亡魂の憤りを休め奉る事は本意なれども、随分二位殿の気色に相適ひ奉らんとてこそ身を砕きては振舞ひしか、恩賞に行はれんずるかと思ひつるに、向顔をだにも遂げられざる上は日頃の忠も益なし。あはれ、是は梶原奴が讒言ごさんなれ。西国にて切りて捨つべき奴を、哀憐を垂れ助け置きて、敵となしぬるよ」と後悔し給へども、甲斐ぞ無き。鎌倉には二位殿、河越太郎を召して、「九郎が院の気色良き儘に、世を乱さんと内々企むなり。西国の侍共付かぬ先に、腰越に馳せ向ひ候へ」と仰せられければ、河越申されけるは、「何事にても候へ、君の御諚を背き申すべきにては候はず候へ共、且は知召して候ふ様に女にて候ふ者を判官殿の召し置かれて候ふ間、身に取りては痛はしく候ふ。他人に仰せ付けられ候へ」と申し捨ててぞ立たれける。理なれば重ねても仰せ出だされず、又畠山を召して仰せられけるは、「河越に申し候へば、親しくなり候ふとて、叶はじと申す。さればとて世を乱さんと振舞ひ候ふ九郎を、其の儘置くべき様なし。御辺打ち向ひ給ひ候ふべし。吉例なり。さも候はば伊豆駿河両国を奉らん」と仰せられければ、畠山万に憚らぬ人にて申されけるは、「御諚背き難く候へ共、八幡大菩薩の御誓にも、人の国より我が国、他の人よりも我が人をこそ守らんとこそ承り候へ。他人と親きとを比ぶれば、譬ふる方なし。梶原と申すは一旦の便によりて召し使はるる者なり。彼が讒言により、年来の忠と申し、御兄弟の御仲と申し、たとひ御恨み候ふ共、九国にても参らさせ給ひて、見参とて、重忠に賜はり候はんずる伊豆駿河両国を勧賞の引手物に参らせ給ひて、京都の守護に置き参らせ給ひ候ひて、御後ろを守らさせ給ひて候はん程の御心安き事は何事か候ふべき」と憚る所無く申し捨てて立たれける。二位殿理と思召しけるにや、其の後は仰せ出ださるる事もなし。腰越には此の事を聞き給ひて、野心を挿まざる旨数通の起請文を書き進じられけれ共、猶御承引無かりければ重ねて申状をぞ参らせられける。
腰越の申状の事源義経恐れ乍ら申し上げ候ふ意趣は、御代官の其の一つに撰ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、会稽の恥辱を雪ぐ。勲賞行はるべき所に、思ひの外に虎口の讒言に依つて莫大の勲功を黙止せらる。義経犯す事なうして、咎を蒙り、誤りなしと雖も、功有りて御勘気を蒙るの間、空しく紅涙に沈む。讒者の実否を糾されず、鎌倉中へだに入れられざる間、素意を述ぶるに能はず。徒らに数日を送る。此の時に当たつて永く恩顔を拝し奉らず、骨肉同胞の儀既に絶え、宿運極めて空しきに似たるか、将又先世の業因を感ずるか。悲しき哉、此の条、故亡父尊霊再誕し給はずむば、誰の人か愚意の悲嘆を申し披かん、何れの人か哀憐を垂れんや。事新しき申状、述懐に似たりと雖も、義経身体髪膚を父母に受け、幾の時節を経ずして、故頭殿御他界の間、孤子となつて、母の懐の中に抱かれて、大和国宇陀郡に赴きしより以来、一日片時も安堵の思ひに住せず、甲斐無き命は存ずと雖も、京都の経廻難治の間、身を在々所々に隠し、辺土遠国を栖として、土民百姓等に服仕せらる。然れども幸慶忽ちに純熟して、平家の一族追討の為に上洛せしむる。先づ木曾義仲を誅戮の後平家を攻め傾けんが為に、或る時は峨々たる巌石に駿馬に策つて、敵の為に命を亡ぼさん事を顧みず。或る時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めん事を痛まずして、屍を鯨鯢の腮に懸く。加之甲冑を枕とし、弓箭を業とする本意、併ら亡魂の憤を休め奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外は他事なし。剰へ義経五位尉に補任の条、当家の重職、何事か是に如かん。然りと雖も今の愁深く歎切なり。仏神の御助に非ずは、争か愁訴を達せん。是に因つて、諸寺諸社の牛王宝印の御裏を以て全く野心を挿まざる旨、日本国中の大小の神祇冥道を請じ、驚かし奉つて、数通の起請文を書き進ずと雖も、猶以て御宥免なし。夫我が国は神国なり。神は非礼を享け給ふべからず。憑む所他に有らず。偏へに貴殿広大の御慈悲を仰ぎ、便宜を伺ひ高聞に達せしめ、秘計を廻らして、誤無き旨を宥ぜられ、芳免に預からば、積善の余慶家門に及び、栄華を永く子孫に伝へ、仍つて年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん。書紙に尽くさず、併ら省略せしめ候ひ畢んぬ。義経恐惶謹言。元暦+二年六月五日源義経進上因幡守殿へとぞ書かれたる。是を聞召して、二位殿を始め奉りて御前の女房達に至るまで、涙をぞ流されける。扨こそ暫く差し置かれけれ。判官は都に院の御気色よくて、京都の守護には義経に過ぎたる者有らじと言ふ御気色なり。万事仰ぎ奉る。かくて秋も暮れ、冬の初めにもなりしかば、梶原が憤安からずして、頻に讒言申しければ、二位殿さもとや思はれける。