義経記 - 23 頼朝義経対面の事

九郎御曹司浮島が原に著き給ひ、兵衛佐殿の陣の前三町ばかり引き退いて、陣をとり、暫く息をぞ休められける。佐殿是を御覧じて「此処に白旗白印にて清げなる武者五六十騎ばかり見えたるは、誰なるらん、覚束なし。信濃の人々は木曾に随ひて止まりぬ。甲斐の殿原は二陣なり。如何なる人ぞ。本名実名を尋ねて参れ」とて堀弥太郎御使ひに遣はされ、家の子郎等数多引き具して参る。間を隔て弥太郎一騎進み出で申しけるは、「是に白印にておはしまし候ふは誰にて渡らせ給ひ候ふぞ。本名実名を確かに承り候へと鎌倉殿の仰せにて候ふ」と申しければ、其の中に廿四五ばかりなる男の色白く、尋常なるが、赤地の錦の直垂に紫裾濃の鎧の裾金物打ちたるを著、白星の五枚兜に鍬形打つて猪頚に著、大中黒の矢負ひ、重藤の弓持ちて、黒き馬の太く逞しきに乗りたるが歩ませ出でて、「鎌倉殿も知召されて候ふ。童が名牛若と申し候ひしが、近年奥州に下向仕り候ひて居候ひつるが、御謀反の様承り、夜を日に継ぎて馳せ参じて候ふ。見参に入れて賜び候へ」と仰せられければ、堀弥太郎、さては御兄弟にてましましけりと馬より飛んで下り、御曹司の乳母子佐藤三郎を呼び出だして、色代有り。弥太郎一町ばかり馬を引かせけり。かくて佐殿の御前に参り、此の由を申しければ、佐殿は善悪に騒がぬ人にておはしけるが、今度は殊の外に嬉しげにて、「さらば是へおはしまし候へ。見参せん」と宣へば、弥太郎やがて参り、御曹司に此の由を申す。御曹司も大きに悦び、急ぎ参り給ふ。佐藤三郎、同四郎伊勢三郎是等三騎召し連れて参らるる。佐殿御陣と申すは、大幕百八十町引きたりければ、其の内は八ケ国の大名小名なみ-居たり。各々敷皮にてぞ有りける。佐殿御座敷には畳一畳敷きたれ共、佐殿も敷皮にぞおはしける。御曹司は兜を脱ぎて童に著せ、弓取り直して、幕の際に畏まつてぞおはしける。其の時佐殿敷皮を去り、我が身は畳にぞ直られける。「それへそれへ」とぞ仰せらるる。御曹司しばらく辞退して敷皮にぞ直られける。佐殿御曹司をつくづくと御覧じて先づ涙にぞ咽ばれける。御曹司も其の色は知らね共、共に涙に咽び給ふ。互に心の行く程泣きて後、佐殿涙を抑へて、「扨も頭殿に後れ奉りて、其の後は御行方を承り候はず。幼少におはし候ふ時、見奉りしばかり也。頼朝池の尼の宥められしによりて、伊豆の配所にて伊東、北条に守護せられ、心に任せぬ身にて候ひし程に奥州へ御下向の由はかすかに承つて候ひしかども、音信だにも申さず候ふ。兄弟有りと思召し忘れ候はで、取り敢へず御上り候ふ事、申し尽くし難く悦び入り候ふ。是御覧候へ。斯かる大功をこそ思ひ企てて候へ、八ケ国の人々を始めとして候へども、皆他人なれば身の一大事を申し合はする人もなし。皆平家に相従ひたる人々なれば、頼朝が弱げを守り給ふらんと思へば、夜も夜もすがら平家の事のみ思ひ、又ある時は、平家の討手上せばやと思へども、身は一人なり。頼朝自身進み候へば、東国覚束なし。代官上せんとすれば、心安き兄弟もなし。他人を上せんとすれば、平家と一つに成りて、返つて東国をや攻めんと存ずる間、それも叶ひ難し。今御辺を待ち付けて候へば、故左馬頭殿生き返らせ給ひたる様にこそ存じ候へ。我等が先祖八幡殿の後三年の合戦にむなうの城を攻められしに、多勢皆亡ぼされて、無勢になりて、厨河のはたに下り下りて、幣帛を俸げて王城を伏し拝み、「南無八幡大菩薩御覚えを改めず、今度の寿命を助けて本意を遂げさせて給べ」と祈誓せられければ、誠に八幡大菩薩の感応にや有りけん、都におはする御弟刑部丞内裏に候ひけるが、俄に内裏を紛れ出で、奥州の覚束無きとて、二百余騎にて下られける。路次にて勢打ち加はり、三千余騎にて厨河に馳せ来たつて、八幡殿と一つになりて遂に奥州を従へ給ひける。其の時の御心も、頼朝御辺を待ち得参らせたる心も、如何でか是に勝るべき。今日より後は魚と水との如くにして、先祖の恥をすすぎ、亡魂の憤りを休めんとは思召されずや。御同心も候はば、尤も然るべし」と宣ひも敢へず、涙を流し給ひけり。御曹司兎角の御返事も無くして、袂をぞ絞られける。是を見て大名小名互ひの心の中推量られて、皆袖をぞ濡らされける。暫く有りて、御曹司申されけるは、「仰せの如く、幼少の時御目にかかりて候ひけるやらん。配所へ御下りの後は、義経も山科に候ひしが、七歳の時鞍馬へ参り、十六まで形の如く学問を仕り、さては都に候ひしが、内々平家方便を作る由承り候ひし間、奥州へ下向仕りて、秀衡を頼み候ひつるが、御謀反の由承りて、取り敢ず馳せ参る。今は君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に入り候ふ心地してこそ存じ候へ。命をば故頭殿に参らせ候ふ。身をば君に参らする上は、如何仰せに従ひ参らせでは候ふべき」と申しも敢へず、又涙を流し給ひけるこそ哀れなれ。さてこそ此の御曹司を大将軍にて上せ給ひけり。