義経記 - 22頼朝謀反により義経奥州より出で給ふ事

さる程に佐殿の謀反奥州に聞こえければ、御弟九郎義経、本吉冠者泰衡を召して秀衡に仰せけるは、「兵衛佐殿こそ謀反起こして、八ケ国を打ち従へて、平家を攻めんとて都へ上り給ふと承りて候へ。義経かくて候ふこそ心苦しく候へ。追ひ付き奉りて、一方の大将軍をも望まばや」とぞ仰せられける。秀衡申しけるは、「今まで、君の思召し立たぬ御事こそ僻事にて候へ」とて、泉冠者を呼びて、「関東に事出で来、源氏打ち出で給ふなり。両国の兵共催せ」とぞ申しける。御曹司仰せられけるは、「千騎万騎も具足したく候へども、事延びては叶ふまじ」とて打ち出で給ふ。取り敢へざりければ、先づかつがつ三百余騎を奉りける。御曹司の郎等には西塔の武蔵坊、又園城寺法師の、尋ねて参りたる常陸房、伊勢三郎、佐藤三郎継信、同じく四郎忠信是等を先として三百余騎馬の腹筋馳せ切り、脛の砕くるをも知らず、揉みに揉うで馳せ上る。阿津賀志の中山馳せ越え、安達の大城戸打ち通り、行方の原、ししちを見給へば、「勢こそ疎になりたるぞ」と仰せられけるに、「或いは馬の爪欠かせ、或いは脛を馳せ砕きて、少々道に止まり、是までは百五十騎御座候ふ」と申しければ、「百騎が十騎にならんまでも、打てや者共、後を顧るべからず」とて、とどろ馳けにて歩ませける。きづかはを打ち過ぎて、下橋の宿に著いて、馬を休ませて、絹河の渡して、宇都宮の大明神伏し拝み参らせ、室の八嶋を外に見て、武蔵国足立郡、小川口に著き給ふ。御曹司の御勢八十五騎にぞなりにける。板橋に馳せ著きて、「兵衛佐殿は」と問ひ給へば、「一昨日是を発たせ給ひて候ふ」と申す。武蔵の国府の六所の町に著いて、「佐殿は」と仰せければ、「一昨日通らせ給ひて候ふ。相模の平塚に」とぞ申しける。平塚に著いて聞き給へば、「早足柄を越え給ひぬ」とぞ聞こえける。いとど心許無くて、駒を早めて打ち給ひける程に、足柄山を打ち越えて、伊豆の国府に著き給ふ。「佐殿は昨日此処を発ち給ひて、駿河国千本の松原、浮島が原に」と申しければ、さては程近しとて、駒を早め、急がれける。