義経記 - 21 頼朝謀反の事

治承四年八月十七日に頼朝謀反起こし給ひて、和泉の判官兼隆を夜討ちにして、同十九日相模国小早川の合戦に打ち負けて、土肥の杉山に引き篭り給ふ。大庭三郎、股野五郎、土肥の杉山を攻むる。廿六日の曙に伊豆国真名鶴崎より舟に乗りて、三浦を志して押し出だす。折節風はげしくて、岬へ船を寄せ兼ねて、二十八日の夕暮に安房国州の崎と言ふ所に御舟を馳せ上げて、其の夜は、滝口の大明神に通夜有りて、夜と共に祈誓をぞ申されけるに、明神の示し給ふぞと覚しくて、御宝殿の御戸を美しき御手にて押し開き、一首の歌をぞ遊ばしける。
源は同じ流れぞ石清水たれ堰き上げよ雲の上まで
兵衛佐殿夢打ち覚めて、明神を三度拝し奉りて、
源は同じ流れぞ石清水堰き上げて賜べ雲の上まで
と申して、明くれば州の崎を立ちて、坂東、坂西にかかり、真野の館を出で、小湊の渡して、那古の観音を拝して、雀島の大明神の御前にて形の如くの御神楽を参らせて、猟島に著き給ひぬ。加藤次申しけるは、「悲しきかなや。保元に為義切られ給ふ。平治に義朝討たれ給ひて後は、源氏の子孫皆絶え果てて弓馬の名を埋んで星霜を送り給ふ。偶々も源氏思ひ立ち給へば、不運の宮に与し参らせて、世を損じ給ふこそ悲しけれ」と申しければ、兵衛佐殿仰せられけるは、「斯く心弱くな思ひそ。八幡大菩薩如何でか思召し捨てさせ給ふべき」と諌め給ひけるこそ頼もしく覚ゆれ。さる程に三浦の和田小太郎、佐原十郎、久里浜の浦より小船に取り乗りて、宗徒の輩三百余人猟島へ参りて源氏に属く。安房国の住人丸太郎、安西の太夫、是等二人大将として五百余騎馳せ来たり源氏に属く。源氏八百余騎になり、いとど力付きて、鞭を上げて打つ程に、安房と上総の堺なる造海の渡をして、上総国讚岐の枝浜を馳せ急がせ給ひて、磯が崎を打ち通りて、篠部、いかひしりと言ふ所に著き給ふ。上総国の住人伊北、伊南、庁北、庁南、武射、山辺、畔隷、くはのかみの勢、都合一千余騎周淮川と言ふ所に馳せ来たつて、源氏に加はる。され共介の八郎は未だに見えず。私に広常申しけるは、「抑兵衛佐殿の安房、上総に渡りて二ケ国の軍兵を揃へ給ふなるに、未だ広常が許へ御使ひを賜はらぬこそ心得ね。今日待ち奉りて仰せ蒙らずは、千葉、葛西を催して、きさうとの浜に押し向ひて、源氏を引き立て奉らん」と議する処に、藤九郎盛長、褐の直垂に黒革威の腹巻に黒津羽の矢負ひ、塗篭藤の弓持ちて、介の八郎の許にぞ来たりける。「上総介殿に見参」と申しければ、兵衛佐殿の御使ひと申せば、嬉しさに、急ぎ出で合ひて対面す。御教書賜はり、拝見す。家の子郎等も差し遣はせよと仰せられんとこそ思ひつるに、「今まで広常が遅く参るこそ奇怪なれ」と書き給ひたるを打ち見て、「あはれ、殿の御書かな。斯くこそ有らまほしけれ」とて、則ち千葉介の許へ送る。葛西、豊田、うらのかみ、上総介の許へ馳せ寄りて、千葉、上総介を大将軍として、三千余騎開発の浜に馳せ来たり源氏につく。兵衛佐殿四万余騎になりて、上総の館に著き給ふ。斯くする程にこそ久しけれ。されども八ケ国は源氏に心有る国なりければ、我も我もと馳せ参る。常陸国には宍戸、行方、志田、東条、佐竹別当秀義、高市の平武者太郎、小野寺禅師道綱、上野国には大胡太郎、山上さゑよりの信高武蔵国には河越太郎重頼、小太郎重房同じき三郎重義、党には丹、横山、猪俣馳せ参る。畠山、稲毛は未だ参らず。秩父庄司に小山田別当は在京によりて参らず。相模国には本間、渋谷馳せ参る。大庭、股野、山内は参らず。治承四年九月十一日武蔵と下野の境なる松戸庄市河と言ふ所に著き給ふ。御勢八万九千とぞ聞こえける。此処に坂東に名を得たる大河一つ有り。此の河の水上は、上野国刀根庄、藤原と言ふ所より落ちて水上遠し。末に下りては在五中将の墨田河とぞ名付けたる。海より潮差し上げて、水上には雨降り、洪水岸を浸し流れたり。偏へに海を見る如く、水に堰かれて五日逗留し給ひ、墨田の渡両所に陣を取つて、櫓をかき、櫓の柱には馬を繋で、源氏を待ち懸けたり。兵衛佐殿は是を御覧じて、「彼奴首取れ」と宣へば、急ぎ櫓の柱を切り落して、筏にし、市河へ参り、葛西兵衛について、見参に入るべき由申したりけれども用ゐ給はず。重ねて申しければ、「如何様にも頼朝を猜むと思ふぞ。伊勢加藤次心許すな」と仰せられける。江戸太郎色を失ひける所に千葉介近所に有りながら如何有るべき。成胤申さんとて、御前に畏まつて、不便の事を申しければ、佐殿仰せられけるは、「江戸太郎八ケ国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢此の二三日水に堰かれて渡し兼ねたるに、水の渡に浮橋を組んで、頼朝が勢武蔵国王子板橋に付けよ」とぞ宣ひける。江戸太郎承りて「首を召さるるとも如何でか渡すべき」と申す所に千葉介葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや江戸太郎助けん」とて、両人が知行所、今井、栗川、亀無、牛島と申す所より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す所は江戸太郎が知行所なり。折節西国船の著きたるを数千艘取り寄せ、三日がうちに浮橋を組んで、江戸太郎に合力す。佐殿神妙なる由仰せられ、さてこそ太日、墨田打ち越えて、板橋に著き給ひけり。