義経記 - 20 弁慶義経に君臣の契約申す事

頃は六月十八日の事なるに、清水の観音に上下参篭す。弁慶も何ともあれ、昨夕の男清水にこそ有るらんに、参りて見ばやと思ひて参りける。白地に清水の惣門に佇みて待てども見え給はず。今宵もかくて帰らんとする所に何時もの癖なれば、夜更けて清水坂の辺に例の笛こそ聞こえけれ。弁慶「あら面白の笛の音や、あれをこそ待ちつれ。此の観音と申すは、坂上田村丸の建立し奉りし御仏なり。我三十三身に身を変じて衆生の願ひを満てずは、祇園精舎の雲に交り、永く正覚を取らじと誓ひ、我地に入らん者には福徳を授けんと誓ひ給ふ御仏なり。されども弁慶は福徳も欲しからず、只此の男の持ちたる太刀を取らせて賜べ」と祈誓して、門前にて待ちかけたり。御曹司ともすればいぶせく思召しければ、坂の上を見上げ給ふに、彼の法師こそ昨日に引き替へて、腹巻著て、太刀脇挟み、長刀杖に突き待ちかけたり。御曹司見給ひて、曲者かな、又今宵も是に有りけるやと思ひ給ひて、少しも退かで門を指して上り給へば、弁慶「只今参り給ふ人は、昨日の夜天神にて見参に入りて候ふ御方にや」と申しければ、御曹司「さる事もや」と宣へば、「さて持ち給へる太刀をば賜び候ふまじきか」とぞ申しける。御曹司「幾度も只は取らすまじ。欲しくは寄りて取れ」と宣へば、「何時も強言は変はらざり」とて、長刀打ち振り、真下りに喚いて懸かる、御曹司太刀抜き合はせて懸かり給ふ。弁慶が大長刀を打ち流して、手並の程は見しかば、あやと肝を消す。さもあれ、手にもたまらぬ人かなと思ひけり。御曹司「終夜、斯くて遊びたくあれども、観音に宿願有り」とて打ち行き給ひぬ。弁慶独言に、「手に取りたるものを失ひたる心地する」とぞ申しける。御曹司、何ともあれ、彼奴は雄猛なる者なり。あはれ、暁まであれかし。持ちたる太刀長刀打ち落して、薄手負せて生捕にして、独り歩くは徒然なるに、相伝にして召し使はばやとぞ思召しける。弁慶此の企を知らず、太刀に目を懸けて、跡につきてぞ参りける。清水の正面に参りて、御堂の中を拝み奉れば、人の勤の声はとりどりなりと申せば、殊に正面の内の格子の際に、法華経の一の巻の始めを尊く読み給ふ声を聞きて、弁慶思ひけるは、あら不思議やな、此の経読みたる声は有りつる男の「憎い奴」と言ひつる声に、さも似たるものかなと、寄りて見んと思ひて持ちたる長刀をば正面の長押の上に差し上げて、帯きたる太刀ばかり持ちて、大勢の居たる中に、「御堂の役人にて候ふ。通させ給へ」とて人の肩をも嫌はず、押へて通りけり。御曹司御経遊ばして居給へる後ろに踏みはたかりて立ち上がりけり。御燈火の影より人是を見て、「あらいかめしの法師や、丈の高さよ」とぞ申しける。何として知りて是まで来たるらんと、御曹司は見給へども、弁慶は見付けず。只今までは男にておはしつるが、女の装束にて衣打ち被き居給ひたり。武蔵坊思ひわづらひてぞ有りける。中々是非無く推参せばやと思ひ、太刀の尻鞘にて、脇の下をしたたかに突き動かして、「児か女房か、是も参りにて候ふぞ。彼方へ寄らせ給へ」と申しけれども返事もし給はず。弁慶さればこそ、只者にては有らず。有りつる人ぞと思ひ、又したたかにこそ突いたりけれ。其の時御曹司仰せられけるは、「不思議の奴かな。己れが様なる乞食は木のした、萱の下にて申す共、仏の方便にてましませば、聞召し入れられんぞ。方々おはします所にて狼籍なり。其処退き候へ」と仰せられけれども、弁慶「情無くも宣ふものかな。昨日の夜より見参に入りて候ふ甲斐も無く、其方へ参り候はん」と申しもはたさず、二畳の畳を乗り越え、御傍へ参る。人推参尾篭なりと憎みける。斯かりける所に、御曹子の持ち給へる御経を追つ取つて、ざつと開いて、「あはれ御経や、御辺の経か、人の経か」と申しける。されども返事もし給はず、「御辺も読み給へ。我も読み候はん」と言ひて読みけり。弁慶は西塔に聞こえたる持経者なり。御曹司は鞍馬の児にて習ひ給ひたれば、弁慶が甲の声、御曹司の乙の声、入り違へて二の巻半巻ばかりぞ読まれたる。参り人のえいやづきもはたはたと鎮まり、行人の鈴の声も止めて、是を聴聞しけり。万々世間澄み渡りて尊く心及ばず、暫く有りて、「知る人の有るに立ち寄りて、又こそ見参せめ」とて立ち給ふ。弁慶是を聞きて、「現在目の前におはする時だにもたまらぬ人の、何時をか待ち奉るべき。御出候へ」とて、御手を取りて引き立て、南面の扉の下に行きて申しけるは、「持ち給へる太刀の真実欲しく候ふに、それ賜び候へ」と申しければ「是は重代の太刀にて叶ふまじ」「さ候はば、いざさせ給へ。武芸に付けて、勝負次第に賜はり候はん」と申しければ、「それならば参りあふべし」と宣へば、弁慶やがて太刀を抜く。御曹司も抜き合はせ、散々に打ち合ふ。人是を見て、「こは如何に。御坊の、是程分内もせばき所にて、しかも幼き人と戯れは何事ぞ。其の太刀差し給へ」と雖も、聞きも入れず、御曹司上なる衣を脱ぎて捨て給へば、下は直垂腹巻をぞ著給へる。此の人も只人にはおはせざりけりとて、人目をさます。女や尼童共、周章狼狽き、縁より落つるものも有り、御堂の戸を立て、入れじとするものも有り。されども二人の者はやがて舞台へ引いて、下り合うて、戦ひける。引いつ進んづ討ち合ひける間、始めは人も懼ぢて寄らざりけるが、後には面白さに行道をする様に付きてめぐり、是を見る。他人言ひけるは、「抑児が勝るか、法師が勝るか」「いや児こそ勝るよ。法師は物にても無きぞ。早弱りて見ゆるぞ」と申しければ、弁慶是を聞きて、「さては早我は下になるごさんなれ」とて、心細く思ひける。御曹司も思ひきり給ふ。弁慶も思ひきつてぞ討ち合ひける。弁慶少し討ちはづす所を御曹司走りかかつて切り給へば、弁慶が弓手の脇の下に切先を打ち込まれて、ひるむ所を太刀の脊にて、散々に討ちひしぎ、東枕に打ち伏して上に打ち乗り居て、「さて従ふや否や」と仰せられければ、「是も前世の事にてこそ候ふらん。さらば従ひ参らせん」と申しければ、著たる腹巻を御曹司重ねて著給ひ、二振の太刀を取り、弁慶を先に立てて、其の夜の中に山科へ具しておはしまし、傷を癒して、其の後連れて京へおはして、弁慶と二人して平家を狙ひ給ひける。其の時見参に入り始めてより、志又二つ無く身に添ひ、影の如く、平家を三年に攻め落し給ひしにも度々の高名を極めぬ。奥州衣川の最後の合戦まで御供して、遂に討死してんげる武蔵坊弁慶是なり。斯くて都には九郎義経、武蔵坊と言ふ兵を語らひて、平家を狙ふと聞こえ有りけり。おはしける所は四条の上人が許におはする由、六波羅へこそ訴へたり。六波羅より大勢押し寄せて、上人を捕る。其の時御曹司おはしけれども、手にもたまらず失ひ給ひけり。御曹司「此の事洩れぬ程にてあれ、いざや奥へ下らん」とて、都を出で給ひ、東山道にかかりて木曾が許におはして、「都の住居適はぬ間、奥州へ下り候へ。斯くて御渡り候へば、万事は頼もしくこそ思ひ奉れ。東国北国の兵を催し給へ。義経も奥州より差し合はせて、疾く疾く本意を遂げ候はんとこそ思ひ候へ。是は伊豆国近く候へば常に兵衛佐殿の御方へも御訪れ候へ」とて木曾が許より送られて、上野の伊勢三郎が許までおはしけれ。是より義盛御供して、平泉へ下りけり。