義経記 - 16 弁慶生まるる事

別当此の子の遅く生まるる事不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「如何様なる者ぞ」と問はれければ、生まれ落ちたる気色は世の常の二三歳ばかりにて、髪は肩の隠るる程に生ひて、奥歯も向歯も殊に大きに生ひてぞ生まれけれ。別当に此の由を申しければ、「さては鬼神ごさんなれ。しやつを置いては仏法の仇となりなんず。水の底に紫漬にもし、深山に磔にもせよ」とぞ宣ひける。母是を聞き、「それは然る事なれ共、親となり、子と成りし、此の世一つならぬ事ぞと承る。忽ちに如何失はん」と嘆き入りてぞおはしける所に、山の井の三位と言ひける人の北の方は、別当の妹なり。別当におはして幼き人の御不審を問ひ給へば、「人の生まるると申すは九月十月にてこそ極めて候へ。彼奴は十八月に生まれて候へば、助け置きても親の仇ともなるべく候へば、助け置く事候ふまじ」と宣ひける。叔母御前聞き給ひて、「腹の内にて久しくして生まれたる者、親の為に悪しからんには、大唐の黄石が子は腹の内にて八十年の歯を送り、白髪生ひて生まれける。年は二百八十歳、丈低く色黒くして、世の人には似ず。されども八幡大菩薩の御使者現人神と斎はれ給ふ。理をまげて、我等に賜はり候へ。京へ具して上り、善くは男になして、三位殿へ奉るべし。悪くは法師になして、経の一巻も読ませたらば、僧党の身として罪作らんより勝るべし」と申されければ、さらばとて叔母に取らせける。産所に行きて産湯を浴びせて、鬼若と名を付けて、五十一日過ぎければ、具して京へ上り、乳母を付けてもてなし伝きける。鬼若五つにては、世の人十二三程に見えける。六歳の時疱瘡と言ふものをして、いとど色も黒く、髪は生まれたる儘なれば、肩より下へ生ひ下り、髪の風情も男になして叶ふまじ、法師になさんとて、比叡の山の学頭西塔桜本の僧正の許に申されけるは、「三位殿の為には養子にて候ふ。学問の為に奉り候ふ。眉目容貌は参らするに付けて恥ぢ入り候へども、心は賢々しく候ふ。書の一巻も読ませて賜び候へ。心の不調に候はんは直させ給ひ候ひて、如何様にも御計らひにまかせ候ふぞ」とて上せけり。桜本にて学問する程に、精は月日の重なるに随ひて、人に勝れてはかばかし。学問世に越えて器用なり。されば衆徒も、「容貌は如何にも悪かれ。学問こそ大切なり」と宣ひぬ。学問に心をだにも入れなば、さてよかるべきに、力も強く骨太なり。児、法師原を語らひて、人も行かぬ御堂の後ろ、山の奥などへ篭り居て、腕取、腕押、相撲などぞ好みける。衆徒此の事を聞きて、「我が身こそ、徒者にならめ、人の所に学問する者をだに賺し出だして、不調になす事不思議なり」とて、僧正の許に訴訟の絶ゆる事なし。斯く訴へける者をば敵の様に思ひて、其の人の方へ走り入りて、蔀、妻戸を散々に打ち破りけれども、悪事も武用も鎮むべき様ぞ無き。其の故は父は熊野の別当なり。養父は山の井殿、祖父は二位の大納言、師匠は三千坊の学頭の児にて有る間、手をも指して良き事有るまじとて、只打ち任せてぞ狂はせける。されば相手は変はれども鬼若は変はらず、諍の絶ゆる事なし。拳を握り、人を締めければ、人々道をも直に行得ず。偶々逢ふ者も道を避けなどしければ、其の時は相違無く通して後、会うたる時取つて抑へて、「さもあれ、過ぎし頃は行き逢ひ参らせて候ふに、道を避けられしは、何の遺恨にて候ひけるぞ」と問ひければ、恐ろしさに膝ふるひなどする物を、肱捩ぢ損じ、拳を以てこは胸を押し損じなどする間、逢ふ者の不祥にてぞ有りける。衆徒僉議して、僧正の児なり共、山の大事にて有るぞとて、大衆三百人院の御所へ参りて申しければ、「それ程の僻事の者をば急ぎ追ひ失へ」と院宣有りければ、大衆悦び、山上へ帰所に公卿僉議有りて、古き日記見給へば、「六十一年に山上にかかる不思議の者出で来ければ、朝家の祇祷になる事有り。院宣にて是を鎮めつれば、一日が中に天下無双の願所五十四ケ所ぞと言ふ事有り。今年六十一年に相当たる。只棄て置け」とぞ仰せける。衆徒憤り申しけるは、「鬼若一人に三千人の衆徒と思召しかへられ候ふこそ遺恨なれ。さらば山王の御輿を振り奉らん」と申しければ、神には御料を参らせ給ひければ、衆徒此の上はとて鎮まりけり。此の事鬼若に聞かすなとて隠し置きたりしを、如何なる痴の者か知らせけん、「是は遺恨なり」とて、いとど散々に振舞ひける。僧正もて扱ひて、「有らば有ると見よ。無くは無しと見よ」とて、目も見せ給はざりけり。