義経記 - 15 熊野の別当乱行の事

義経の御内に聞こえたる一人当千の剛の者有り。俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。彼が出で来る由来を尋ぬるに、二位の大納言と申す人は君達数多持ち給ひたりけれども、親に先立ち、皆失せ給ふ。年長け、齢傾きて、一人の姫君を設け給ひたり。天下第一の美人にておはしければ、雲の上人我も我もと望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。大臣師長懇ろに申し給ひければ、さるべき由申されけれども、今年は忌むべき事有り。東の方は叶はじ。明年の春の頃と約束せられけり。御年十五と申す夏の頃如何なる宿願にか、五条の天神に参り給ひて、御通夜し給ひたりけるに、辰巳の方より俄に風吹き来たりて、御身にあたると思ひ給ひければ、物狂はしく労ぞ出で来給ひたる。大納言、師長、熊野を信じ参らせ給ひける程に、「今度の病たすけさせ給へ。明年の春の頃は参詣を遂げ、王子王子の御前にて宿願を解き候ふべし」と祈られければ、程無く平癒し給ひぬ。斯くて次の年の春、宿願を晴らさせ給はん為に参詣有り。師長、大納言殿よりして、百人道者付け奉りて、三の山の御参詣を事故無く遂げ給ふ。本宮証誠殿に御通夜有りけるに別当も入堂したりけり。遙かに夜更けて、内陣にひそめきたり。何事なるらんと姫君御覧ずる処に、「別当の参り給ひたる」とぞ申したり。別当幽なる燈火の影より此の姫君を見奉り給ひて、さしも然るべき行人にておはしけるが、未だ懺法だにも過ぎざるに、急ぎ下向して、大衆を呼びて、「如何なる人ぞ」と問はれければ、「是は二位の大納言殿の姫君、右大臣殿の北の方」とぞ申しける。別当、「それは約束ばかりにてこそあんなれ。未だ近づき給はず候ふと聞くぞ。先々大衆の、あはれ熊野に何事も出で来よかしと人の心をも我が心をも見んと言ひしは今ぞかし。出で立ちてあしきの無からん所に、道者追ひ散らして、此の人を取つてくれよかし。別当が児にせん」とぞ宣ひける。大衆是を聞きて、「さては仏法の仇、王法の敵とやなり給はんずらん」と申しければ、「臆病の致す所にてこそあれ。斯かる事を企つる習ひ、大納言殿、師長、院の御所へ参り、訴訟申し給はば、大納言を大将として畿内の兵こそ向はんずらめ。それは思ひ設けたる事なれ。新宮熊野の地へ敵に足を踏ませばこそ」とぞ宣ひける。先々の僻事と申すは大衆の赴きを別当の鎮め給ふだにも、ややもすれば衆徒逸りき。況んや、是は別当起こし給ふ事なれば、衆徒も兵を進めけり。我も我もと甲冑をよろひ、先様に走り下りて、道者を待つ所に又後より大勢鬨を作りて追つかけたり。恥を恥づべき侍共皆逃げける。衆徒輿を取つて帰り、別当に奉る。我が許は上下の経所なりければ、若し京方の者有るやとて、政所に置き奉り、諸共に明暮引き篭りてぞおはしける。若し京より返し合はする事もやと用心きびしくしたりけり。されども私の計らひにて有らざれば、急ぎ都へ馳せ上りて、此の由を申したりければ右大臣殿大きに憤り給ひて、院の御所に参り給ひて訴へ申されたりければ、やがて院宣を下して、和泉、河内、伊賀、伊勢の住人共を催して、師長、大納言殿を両大将として、七千余騎にて、「熊野の別当を追ひ出だして、俗別当になせ」とて、熊野に押し寄せ給ひて攻め給へば、衆徒身を捨てて防ぐ。京方叶はじとや思ひけん、切目の王子に陣取て、京都へ早馬を立て申されければ、「合戦遅々する仔細有り。其の故は公卿僉議有りて、平宰相信業の御娘、美人にておはしまししかば、内へ召されさせ給ひしを、今此の事に依つて熊野山滅亡せられん事、本朝の大事なり。右大臣には此の姫君を内より返し奉り給はば、何の御憤りか有るべき。又二位の大納言の御婿、熊野の別当、何か苦しかるべきか。年長けたるばかりにてこそあれ、天児屋根の御苗裔、中の関白道隆の御子孫なり。苦しかるまじ」とぞ僉議事畢りて、切目の王子に早馬を立て、此の由を申されければ、右大臣公卿僉議の上は申すに及ばずとて、打ち捨てて帰り上り給ふ。二位の大納言は又我一人して憤るべきならずとて、打ち連れ奉りて上洛有りければ、熊野も都も静なりと雖も、ややもすれば兵共我等がする事は宣旨院宣にも従はばこそと自嘆して、いよいよ代を世ともせざりけり。扨姫君は別当に従ひて年月を経る程に、別当は六十一、姫君に馴れて子を儲けんずるこそ嬉しけれ。男ならば仏法の種を継がせて、熊野をも譲るべしとて、斯くして月日を待つ程に、限り有る月に生まれず、十八月にて生まれける。