きつと思召し出だされけるは、義経が九つの年、鞍馬に有りて東光房の膝の上に寝ねたりし時、「あはれ幼き人の御目の気色や。如何なる人の君達にて渡らせ給ひ候ふやらん」と言ひしかば、「是こそ左馬頭殿の君達」と宣ひしかば、「あはれ、末の世に平家の為には大事かな。此の人々を助け奉りて、日本に置かれん事こそ獅子虎を千里の野辺に放つにてあれ。成人し給ひ候はば、決定の謀反にて有るべし。聞きも置かせ給へ。自然の事候はん時、御尋ね候へ。下総国に下河辺の庄と申す所に候ふ」と言ひしなり。遙々と奥州へ下らんよりも陵が許へ行かばやと思召し、吉次をば「下野の室八嶋にて待て。義経は人を尋ねてやがて追ひつかんずるぞ」とて、陵が許へぞおはしける。吉次は心ならず、先立ち参らせんと奥州へぞ下りける。御曹司は陵が宿所へぞ尋ねて御覧ずるに、世に有りしと覚しくて、門には鞍置き馬共、其の数引き立てたり。差しのぞきて見給へば、遠侍には大人、若きもの五十人ばかり居流れたり。御曹司人を招きて「御内に案内申さん」と宣ひければ、「何処よりぞ」と申す。「京の方よりかねて見参に入りて候ふものにて候ふ」と仰せける。主に此の事を申しければ、「如何様なる人」と申す。「尋常なる人にて候ふ」と言へば、「さらば是へと申せ」とて入れ奉る。陵「如何なる人にて渡らせ給ふぞ」と申しければ、「幼少にて見参に入りて候ひし、御覧じ忘れ候ふや。鞍馬の東光坊の許にて何事も有らん時尋ねよと候ひし程に、万事頼み奉りて下り候ふ」と仰せられければ、陵此の事を聞きて、「かかる事こそ無けれ。成人したる子供は皆京に上りて小松殿の御内に有り。我々が源氏に与せば、二人の子供徒になるべし」と思ひ煩ひて、しばらく打ち案じ申しけるは、「さ承り候ふ。思召し立たせ給ひ候ふ。畏まつて候へども、平治の乱の時、既に兄弟誅せられ給ふべく候へしを、七条朱雀の方に清盛近づかせ給ひて、其の芳志により、命助からせ給ひぬ。老少不定の境、定無き事にて候へども、清盛如何にもなり給ひて後、思召し立たせ給へかし」と申しければ、御曹司聞召て、あはれ彼奴は日本一の不覚人にて有りけるや。あはれとは思召しけれども、力及ばず、其の日は暮し給ひけり。頼まれざらんもの故に執心も有るべからずとて、其の夜の夜半ばかりに陵が家に火をかけて残る所無く散々に焼き払ひて、掻き消す様に失せ給ひけり。かくて行くには、下野の横山の原、室の八嶋、白河の関山に人を付けられて叶ふまじと思召して、墨田河辺を馬に任せて歩ませ給ひける程に、馬の足早くて二日に通りける所を一日に、上野国板鼻と言ふ所に著き給ひけり。