熱田の前の大宮司は義朝の舅なり。今の大宮司は小舅なり。兵衛佐殿の母御前も熱田のそとのはまと言ふ所にぞおはします。父の御形見と思召して、吉次を以て申されければ、大宮司急ぎ御迎ひに人を参らせ入れ奉り、やうやうに労り奉りける。やがて次の日立たんとし給へば、様々諌言に参り、とかくする程に、三日まで熱田にぞおはします。遮那王殿吉次に仰せられけるは、「児にて下らんは悪し。かり烏帽子なりとも著て下らばやと思ふは、如何にすべき」。吉次「如何様にも御計ひ候へ」とぞ申しける。大宮司烏帽子奉り、取り上げ、烏帽子をぞ召されける。「かくて下り、秀衡が名をば何と言ふぞと問はんに、遮那王と言うて、男になりたる甲斐なし。是にて名を改へもせで行かば、定めて元服せよと言はれんずらん。秀衡は我々が為には相伝の者なり。他の謗も有るぞかし。是は熱田の明神の御前、しかも兵衛佐殿の母御前も是におはします。是にて思ひ立たん」とて、精進潔斎して大明神に御参り有り。大宮司、吉次も御伴仕り、二人に仰せけるは、「左馬頭殿の子供、嫡子悪源太、二男朝長、三男兵衛佐、四郎蒲殿、五郎禅師の君、六郎は卿の君、七郎は悪禅師の君、我は左馬八郎とこそ言はるべきに、保元の合戦に叔父鎮西八郎名を流し給ひし事なれば、其の跡をつがん事よしなし。末になる共苦しかるまじ。我は左馬九郎と言はるべし。実名は祖父は為義、父は義朝、兄は義平と申しける。我は義経と言はれん」とて、昨日までは遮那王殿、今日は左馬九郎義経と名を変へて、熱田の宮を打ち過ぎ、何と鳴海の塩干潟、三河国八橋を打ち越えて、遠江国の浜名の橋を眺めて通らせ給ひけり。日頃は業平、山蔭中将などの眺めける名所名所多けれども、牛若殿打ち解けたる時こそ面白けれ、思ひ有る時は名所も何ならずとて、打ち過ぎ給へば、宇津の山打ち過ぎて、駿河なる浮島が原にぞ著き給ひける。