遮那王殿是を聞き給ひて、かねて聞きしに少しも違はず、世に有る者ごさんなれ。あはれ下らばや。左右なく頼まれたらば、十八万騎の勢を十万騎をば国にとどめ、八万騎をば率して、坂東に打ち出で、八ケ国は源氏に志有る国なり。下野殿の国なり。是をはじめとして十二万騎を催して二十万騎になつて、十万騎をば伊豆の兵衛佐殿に奉り、十万騎をば木曾殿につけて、我が身は越後国に打ち越え、鵜川、佐橋、金津、奥山の勢を催して、越中、能登、加賀、越前の軍兵を靡けて、十万騎になりて、荒乳の中山を馳せ越えて、西近江にかかりて、大津の浦に著きて、坂東の二十万騎を待得て、逢坂の関を打ち越えて、都に攻め上り、十万騎をば天下の御所に参らせて、源氏すごさん由を申さんに平家猶も都に繁昌して空しかるべくば、名をば後の世にとどめ、屍をば都に曝さん事身に取りては何の不足か有るべきと思ひ立ち給ふも十六の盛には恐ろしくぞ覚えける。此の男奴に知らせばやと思し召して仰せられけるは、「汝なれば知らするぞ。人に披露有るべからず。我こそ左馬頭義朝が子にてあれ、秀衡がもとへ文一つ言伝ばや。何時の頃返事を取りてくれんずるぞと仰せられければ、吉次座敷をすべりおり、烏帽子の先を地につけて申しけるは、「御事をば秀衡以前に申され候ふ。御文よりも只御下り候へ、道の程御宿直仕まつり候はんずる」と申しければ、文の返り事待たんも心もとなし。さらば連れて下らばやと思召しける。「何時ごろ下り候はんずるぞ」と宣へば、「明日吉日にて候ふ間、形の如くの門出仕まつり候はんずる」と申しければ、「さらば粟田口十禅師の御前にて待たんずるぞ」と宣ひければ、吉次は「承り候ふ」とて下向してんげり。遮那王殿別当の坊に帰りて心の中ばかりに出で立ち給ふ。七歳の春の頃より十六の今に至るまで、朝にはけうくんの霧を払ひ、夕には三光の星をいただき、日夜朝暮なれし馴染の師匠の御名残も今ばかりと思はれければ、しきりに忍ぶとし給へ共、涙にむせび給ひけり。されども心弱くては叶ふべきにあらざれば、承安四年二月二日の曙に鞍馬をぞ出で給ふ。白き小袖一かさねに唐綾を着かさね、播磨浅葱の帷子をうへに召し、白き大口に唐織物の直垂めし、敷妙と言ふ腹巻着篭めにして、紺地の錦にて柄鞘包みたる守刀、黄金作の太刀帯いて、薄化粧に眉細くつくりて、髪高く結ひあげ、心細げにて壁を隔てて出で立ち給ふが、我ならぬ人の訪れて通らん度にさる者是に有りしぞと思ひ出でて、あとをも弔へかしと思はれければ、漢竹の横笛取り出だし、半時ばかり吹きて、音をだにあとの形見とて、泣く泣く鞍馬を出で給ひ、其の夜は四条の聖門坊の宿へ出でさせ給ひて、奥州へ下る由仰せられければ、善悪御伴申し候はんと出で立ちけり。遮那王殿宣ひけるは、「御辺は都にとどまりて、平家のなり行く様を見て知らせよ」とて、京にぞとどめられける。さて遮那王殿粟田口まで出で給ふ。聖門坊もそれまで送り奉り、十禅師の御前にて、吉次を待ち給へば、吉次未だ夜深に京を出で、粟田口に出で来る。種々の宝を二十余疋の馬に負せて先に立て、我が身は京を尋常にぞ出で立ちける。間々引柿したる摺尽しの直垂に秋毛の行縢はいて、黒栗毛なる馬に角覆輪の鞍置いてぞ乗りたりける。児乗せ奉らんとて、月毛なる馬に沃懸地の鞍置きて、大斑の行縢、鞍覆にしてぞ出で来る。遮那王殿「如何に、約束せばや」と宣へば、馬より急ぎ飛んで下り、馬引き寄せ乗せ奉り、かかる縁に会ひけるよと世に嬉しくぞ思ひける。吉次を招きて宣ひけるは、「や、殿、馬の腹筋馳せ切つて、雑人奴等が追ひ着かん。かへりみるに駆足になりて下らんと覚ゆるなり。鞍馬になしと言はば、都に尋ぬべし。都になしと言はば、大衆共定めて東海道へぞ下らんずらんとて、摺針山よりこなたにて追掛けられて、帰れと言はんずる者なり。帰らざらんは仁義礼智にもはづれなん。都は敵の辺也。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東と言ふは源氏に志の有る国なり、言葉の末を以て、宿々の馬取りて下るべし、白川の関をだにも越えば、秀衡が知行の所なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも知るまじきぞ」と宣へば吉次是を聞きてかかる恐ろしき事あらじ。毛のなだらかならん馬一匹をだにも乗り給はずして、恥有る郎等の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行する国の馬を取りて下らんと宣ふこそ恐ろしけれとぞ思ひける。されども命に従ひ、駒を早めて下る程に松坂をも越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関打ち越えて大津の浜をも通りつつ瀬田の唐橋打ち渡り、鏡の宿に著き給ふ。長者は吉次が年頃の知る人なりければ、女房数多出だしつつ色々にこそもてなしけれ。