常盤が子供成人するに従ひて、中々心苦しく、初めて人に従はせんも由なし。習はねば殿上にも交はるべくもなし。只法師になして、跡をも弔ひてなんど思ひて、鞍馬の別当東光坊の阿闍梨は義朝の祈りの師にておはしける程に、御使を遣はして仰せけるは、「義朝の御末の子牛若殿と申し候ふを且は知召してこそ候ふらめ。平家世ざかりにて候ふに、女の身として持ちたるも心苦しく候へば、鞍馬へ参らせ候ふべし。猛くともなだしき心もつけ、書の一巻をも読ませ、経の一字をも覚えさせて賜はり候へ」と申されければ、東光坊の御返事には、「故頭殿の君達にて渡らせ給ひ候ふこそ殊に悦入り候へ」とて、山科へ急ぎ御迎ひに人をぞ参らせける。七歳と申す二月はじめに鞍馬へとぞ上られける。其の後昼は終日に師の御坊の御前にて経を誦み、書学びて、夕日西に傾けば、夜の更け行くに仏の御燈の消ゆるまではともに物を読み、五更の天にもなれ共あまも宵もすぐまで、学問に心をのみぞ尽しける。東光坊も山三井寺にも是程の児有るべしとも覚えず、学問の精と申し、心様眉目形類なくおはしければ、良智坊の阿闍梨、覚日坊の律師も「かくて廿歳ばかりまでも学問し給ひ候はば、鞍馬の東光坊より後も仏法の種をつぎ、多聞の御宝にもなり給はんずる人」とぞ申されける。母も是を聞き、「牛若学問の精よく候ふとも、里に常に有りなんとし候はば、心も不用になり、学問をも怠りなんず。恋しく見たけれと申し候はば、人を賜はり候て、母はそれまで参り、見もし、人に見えられて返し候はん」と申されける。「さなくとも児を里へ下す事おぼろげならぬにて候ふ」とて、一年に一度、二年に一度も下さず。かかる学問の精いみじき人の如何なる天魔のすすめにや有りけん、十五と申す秋の頃より学問の心以ての外に変りけり。其の故は古き郎等の謀反をすすむるにてぞ有りける。