義経記 - 02 常盤都落の事

永暦元年正月十七日の暁、常盤三人の子供を引き具して、大和国宇陀郡岸岡と言ふ所に契約の親しき者有り。是を頼みたづねて行きけれども、世間の乱るる折節なれば、頼まれず。其の国のたいとうじと言ふ所に隠れ居たりける。常盤が母関屋と申す者、楊梅町に有りけるを、六波羅より取り出だし、糺問せらるる由聞こえければ、常盤是を悲しみ、母の命を助けんとすれば、三人の子供を斬らるべし。子供を助けんとすれば、老いたる親を失ふべし。親には子をば如何思ひかへ候ふべき。親の孝養する者をば、堅牢地神も納受有るとなれば、子供の為にも有りなんと思ひ続け、三人の子供引き具して泣く泣く京へぞ出でにける。六条への事聞こえければ、悪七兵衛景清、堅物太郎に仰せつ、子供具し、六条へぞ具足す。清盛常盤を見給ひて、日頃は火にも水にもと思はれけるが、怒れる心も和ぎけり。常盤と申すは日本一の美人なり。九条院は事を好ませ給ひければ、洛中より容顔美麗なる女を千人召されて、其の中より百人、又百人の中より十人、又十人の中より一人撰び出だされたる美女なり。清盛我にだにも従がはば、末の世には子孫の如何なる敵ともならばなれ。三人の子供をも助けばやと思はれける。頼方景清に仰せつけて、七条朱雀にぞ置かれける。日番をも頼方はからひにして守護しける。清盛常は常盤がもとへ文を遣はされけれども、取りてだにも見ず。され共子供を助けんが為に遂には従ひ給ひけり。さてこそ常盤三人の子供をば所々にて成人させ給ひけり。今若八歳と申す春の頃より観音寺に上せ学問させて、十八の年受戒、禅師の君とぞ申しける。後には駿河国富士の裾におはしけるが悪襌師殿と申しけり。八条におはしけるは、そしにておはしけれども、腹悪しく恐ろしき人にて、賀茂、春日、稲荷、祇園の御祭ごとに平家を狙ふ。後には紀伊国に有りける新宮十郎義盛世を乱りし時、東海道の墨俣河にて討たれけり。牛若は四つの年まで母のもとに有りけるが、世の幼ひ者よりも心様振舞人に越えたりしかば、清盛常は心にかけて宣ひけるは、「敵の子を一所にて育てては、遂には如何有るべき」と仰せられければ、京より東、山科と言ふ所に源氏相伝の、遁世して幽なる住居にて有りける所に七歳まで置きて育て給ひけり。