南都に判官殿在します由六波羅に聞こえければ、北条大きに驚き、急ぎ鎌倉へ申されけり。頼朝梶原を召して仰せられけるは、「南都の勧修坊と言ふ者の、九郎に与して世を乱するなるが、奈良法師も大勢討たれてあるなり。和泉、河内の者共九郎に思ひつかぬ先に、これ計らへ」と仰せられければ、梶原申しけるは、「それこそゆゆしき御大事にて候へ。僧徒の身として、然様の事思し召し立ち候はんこそ不思議に候へ」と申す所に、又北条より飛脚到来して、判官南都には在せず、得業の計らひにて隠し奉る由申されければ、梶原申しけるは、「さらば宣旨院宣をも御申し候ひて、勧修坊を是へ下し奉りて、判官の御行方を御尋ね候へ。陳状に随ひて、死罪流罪にも」と申しければ、急ぎ堀の藤次親家に仰せ付けられ、五十余騎にて馳せ上り、六波羅に著きて、此の由を申しければ、北条殿親家を召し具して、院の御所に参じて、仔細を申されければ、院宣には「まろが計らひにあるべからず。勧修坊と言ふは、当帝の御祈りの師、仏法興隆の有験、広大慈悲の智識なり。内裏へ巨細を申さでは叶ふまじ」とて、内裏へ仰せられければ、「仏法興隆の験たる人にても、然様に僻事などを企てんに於ては、朕も叶はせ給ふべからず。頼朝が憤る所理ならずと言ふ事なし。義経も本朝の敵たる上は、勧修坊を渡すべし」と宣旨下りければ、時政悦びをなして、三百余騎にて南都に馳せ下りて、勧修坊にして宣旨の趣披露せられたり。得業是を聞きて、「世は末代と言ひながら、王法の尽きぬるこそ悲しけれ。上古は宣旨と申しければ、枯れたる草木も花咲き実を結び、空飛ぶ翼も落ちけるとこそ承り伝へしに、然れば今は世も斯様なれば、末の代も如何有らんずらん」とて、涙に咽び給ひけり。「仮令宣旨院宣なりとも、南都にてこそ屍を捨つべけれども、それも僧徒の身として穏便ならねば、東国の兵衛佐は諸法も知らぬ人にてあるなるに、次もがな関東へ下りて兵衛佐を教化せばやと思ひつるに、下れと仰せらるるこそ嬉しけれ」とて、やがて出で立ち給ひけり。公卿殿上人の君達学問の志御座しましければ、師弟の別れを悲しみ、東国まで御供申すべき由を申し給へども、得業仰せられけるは、「努々あるべからず。身罪過の者にて召し下され候ふ間、咎とて其の難をば争か遁れさせ給ふべき」と諌め給へば、泣く泣く後に止まり給ふ。「ともかくもなりぬと聞召されば、跡を弔はせ給へ。若し存命へて如何なる野の末、山の奥にも有りと聞き給はば、訪ひ渡らせ給へ」と、泣く泣く思ひ切りて出で給ふ。此の別れを物に譬ふれば、釈尊入滅の時十六羅漢、五百人の御弟子、五十二類に至るまで悲しみ奉りしも、争か是には勝るべき。かくて得業北条に具せられて、平の京へ入り給ふ。六条の持仏堂に入れ奉りて、様々にぞ労り奉る。江馬の小四郎申されけるは、「何事をも思し召し候はば、承り候ひて、南都へ申すべく候ふ」と申されければ、何事をか申すべき。但し此の辺に年来知りたる方候ふ。是へ参り候ふを聞きては尋ぬべき人に候ふが、来たられ候はぬは、如何様にも世に憚りをなし候ひてと覚え候ふ。苦しかるまじく候はば、此の人に見参し下らばや」と仰せられければ、義時「御名をば何と申すぞ。元は黒谷に居られ候ふ。此の程は東山に法然房」と仰せられければ、「さては近き所に御座しまし候ふ上人の御事候」とて、やがて御使を奉る。上人大きに悦びて急ぎ来たり給ふ。二人の智識御目を見合はせ、互ひに涙に咽び給ひけり。勧修坊仰せられけるは、「見参に入りて候ふ事は悦び入りて候へども、面目無き事の候ふぞ。僧徒の法として謀反の人に与したりとて、東国まで取り下され候ふ。其の難を逃れて帰らん事も不定なり。然れば往昔より「先に立ち参らせば、弔はれ参らせん。先に立たせ給ひ候はば、御菩提を訪ひ参らせん」と契り申して候ひしに、先立ち参らせて訪はれ参らせんこそ悦び入りて候へ。是を持仏堂の前に置かせ給ひ、御目にかかり候はん度毎に思ひ出で、後世を訪ひて賜はり候へ」とて、九条の袈裟を外して奉り給へば、東山の上人泣く泣く受け取り給ひけり。東山の上人紺地の錦の経袋より一巻の法華経を取り出だし、勧修坊に参らせ給ふ。互ひに形見取り違へて、上人帰り給ひければ、得業六条に留まりて、いとど涙に咽び給ひけり。此の勧修坊と申すは、本朝大会の大伽藍、東大寺の院主、当帝の御師となり、広大慈悲の智識なり。院参し給ふ時、腰輿牛車に召されて、鮮やかなる中童子、大童子、然るべき大衆数多御供して参られし時は、左右の大臣も各々渇仰し給ひしぞかし。今は何時しか引き替へて、日来著給ひし素絹の御衣をば召されず、麻の衣の賎しきに、剃らで久しき御髪、護摩の煙にふすぶる御気色、中々尊くぞ見奉る。六波羅を出だし奉りて、見馴れぬ武士を御覧じけるだに悲しきに、浅ましげなる伝馬に乗せ奉る。所々の落馬は目も当てられず覚えたり。粟田口打ち過ぎて、松坂越えて、是や逢坂の蝉丸の住み給ひし、四宮河原を打ち過ぎて、逢坂の関越えければ、小野の小町が住み馴れし関寺を伏し拝み、園城寺を弓手になし、大津、打出の浜過ぎて、勢多の唐橋踏みならし、野路篠原も近くなり忘れんとすれど忘れず、常に都の方を顧みて行けば、様々都は遠くなりにけり。音には聞きて、目には見ぬ小野の摺針、霞に曇る鏡山、伊吹の岳も近くなる。其の日は堀の藤次鏡の宿に留まり、次の日は痛はしくや思ひけん、長者に輿を借りて乗せ奉る。「都を御出の時、かくこそ召させ参らすべく候ひしかども、鎌倉の聞こえ其の憚りにて御馬を参らせ候はんずるにて候ふ」と申しければ、得業、「道の程の御情こそ悦び入りて候へ」と仰せられけるこそ哀れなれ。夜を日に継ぎて下りける程に、十四日に鎌倉に著き給ふ。堀の藤次の宿所に入れ奉りて、四五日は鎌倉殿にも申し入れず。或る時得業に申しけるは、「御痛はしく候ひて、鎌倉殿にも申し入れず候ひつれども何時まで申さでは候ふべきなれば、只今出仕仕り候ふ。今日御見参あるべきとこそ覚え候ひぬ」と申しければ、「思ふも中々心苦し。疾くして見参に入り、御問状をも承り候ひて、愚存の旨を申し度こそ候へ」と仰せられければ、藤次頼朝へ参り、此の由申し入る。梶原を召して、「今日中に得業に尋ね聞くべき事有り。侍共召せ」と仰せられければ、承りて召しける侍は誰々ぞ。和田の小太郎義盛、佐原の十郎、千葉介、葛西の兵衛、豊田の太郎、宇都宮の弥三郎、海上の次郎、小山の四郎、長沼の五郎、小野寺の前司太郎、河越の小太郎、同じく小次郎、畠山の二郎、稲毛三郎、梶原平三父子ぞ召されける。鎌倉殿仰せられけるは、「勧修坊に尋ね問はんずる座敷には、何処の程かよかるべき」。梶原申しけるは、「御中門の下口辺こそよく候はん」と申しければ畠山御前に畏まり申されけるは、「勧修坊の御座敷の事承り候ふに、梶原は中門の下口と申し上げ候ふ。是は判官殿に与し奉りたりと言ふ、其の故と覚え候ふ。さすがに勧修坊と申すは、御俗姓と申し、天子の御師匠申し、東大寺の院主にて御座しまし候ふ。御気色渡らせ給ふによつてこそ、是までも申し下し参らせ御座しまして候へ。さこそ遠国にて候ふとも、座敷しどろにては、外処の聞こえ悪しく存じ候ふ。下口などにての御尋ねには一言も御返事は申され候はじ。只同座の御対面や候ふべからん」と申されたりければ、「頼朝もかくこそ思ひつれ」とて、御簾を日頃より高く捲かせて、御座敷には紫端の畳、水干に立烏帽子にて御見参有り。堀の藤次勧修坊を入れ奉る。鎌倉殿思し召しけるは、何ともあれ、僧徒なれば、糾問は叶ふまじ。言葉を以て責め伏せて問はんずる物をと思し召しけり。得業御座敷に居直り給ひけれども、兎角仰せ出だされたる事は無くて、笑ひて、大の御眼にてはたと睨ませてぞ御座しける。得業是を見給ひて、あはれ、人の心の中もさこそ有るらめと思はれければ、手を握りて膝の上に置きて、鎌倉殿をつくづくと守りて、御問状も陳状もさこそ有らんずらんと覚えて、人々固唾を呑みて居たりけり。頼朝堀の藤次を召して、「是が勧修坊か」と仰せられければ、親家畏まつてぞ候ひける。暫く有りて、鎌倉殿仰せられけるは、「抑僧徒と申すは、釈尊の教法を学んで、師匠の閑室に入つしより此の方、意楽を正しく、三衣を墨に染めて、仏法を興隆し経論諸経の前に眼をさらし、無縁の人を弔ひ、結縁の者を導くこそ、僧徒の法とはして候へ。何ぞ謀反の者に与して、世を乱さんとの謀世に隠れなし。九郎天下の大事になり、国土の乱を赴く者を入れ立てて、剰へ奈良法師を我に与せよと宣ふに、用者をば九郎に放ち合はせて切らせ給ふ条、甚だ隠しからず、それを不思議と思ふ所に、猶以て「四国西国の軍兵を一つになし、中国畿内の者共を召して、召されんに参らざる者をば、片岡、武蔵など申す荒者共を差し遣はし、追討して御覧ぜよ。他所は知らず、東大寺興福寺は得業が計らひなれば、叶へざらん時は討死せよ」なんどと勧め給ひたる事以ての外に覚え候ふに、人を付けて都まで送られ候ひけるは、九郎が有所に於ては、知りたるらん。虚言を構へず、正直に申され候へ。其の旨無くば、健かならん小舎人奴等に仰せ付けて、糾問を以て尋ねん時、頼朝こそ全く僻事の者には有るまじけれ」と、強かに問はれ、勧修坊兎角の返事は無くて、はらはらと涙を流し、手を握りて膝の上に置き、「万事を静めて人々聞き給へ。抑聞きも習はぬ言葉かな。和僧は如何に得業と名字を呼びたり共、不覚人にてはよも有らじ。和僧と宣ひたればとて、高名も有るまじ。都にて聞きしには、国の将軍となりて、斯かる果報にも生まれけり、情も御座すると聞きしに、果報は生まれつきの物なり。殿の為にもいやいやの弟、九郎判官には遙かに劣り給ひたる人にて有りけるや。申すに付けて詮無き事にては候へども、平治に御辺の父下野の左馬頭、衛門督に与して、京の軍に打ち負けて、東国の方へ落ち給ひし時、義平も斬られぬ、朝長も死にぬ、明くる正月の初めには、父も討たれしに、御辺の命死し兼ねて、美濃国伊吹山の辺を迷ひ歩き、麓の者共に生捕られ、都まで引き上せ、源氏の名を流し、既に誅せられ給ふべかりしが、池殿の憐み深くして、死罪流罪に申し行ひて、弥平兵衛に預け、永暦の八月の頃かとよ、伊豆の北条奈古谷の蛭が島と言ふ所に流され、廿一年の星霜を経て、田舎人となりて、さこそ頑はしくおはらすらめと思ひしに、少しも違はざりけり。あら無慙や、九郎判官と向背し給ふ事理かな。判官と申すは情も有り、心も剛なり。慈悲も深かりき。治承四年の秋の頃、奥州より馬の腹筋馳せ切り、駿河の国浮島が原に下り居て、一方の大将軍請け取りて、一張の弓を脇に挟み、三尺の剣を帯きて、西海の波に漂ひ、野山を家とし、命を捨て、身を忘れ、何時しか、平家を討ち落して、御身をせめて一両年世に有らせ奉らばやと骨髄を砕き給ひしに、人の讒言今に始めたる事にては候はね共、深き志を忘れて、兄弟の仲不和になり給ひし事のみこそ、甚だ以て愚なれ。親は一世の契り、主は三世の契りと申せども、是が始めやらん、中やらん、終やらん、我も知らず、兄弟は後生までの契りとこそ承り候へ。其の仲を違ひ給ふとて、殿をば人の数にては御座せぬ人と、世には申すげにこそ候へ。去年十二月廿四日の夜打ち更けて、日来は千騎万騎を引き具してこそ御座しまし候ひしが、侍一人をだにも具せず、腹巻ばかりに太刀帯きて、編笠と言ふ物打ち著、万事頼むとて御座したりしかば、古見ず知らぬ人なり共、争か一度の慈悲を垂れざらん、一度は勲功を望み、如何なる時は祈りしぞ、如何なる時は討ち奉るべき。是を以て校量し給へ。有らぬ様に人申したりし事の漏れ候ふげにこそ。去年の冬の暮に出家し給へと度々申ししかども、其の梶原奴が為に出家はしたくもなしと宣ひ候ひつる、其の頃判官殿帯き給ひし太刀を奮ひ取り奉らんとて、悪僧共切られ参らせて候ひしを、人の和讒を構へて申し候ひつらん。全く奈良法師与せよと申したる事なし。其の中夭に南都を落ちられし間、心の中如何ばかり遣る方も無く御座しますらんと存じ候ひて、諌めたる事候ひし。「四国九国の者を召し候へ。東大寺、興福寺は得業が計らひなり。君は天下に御覚えもいみじくて、院の御感にも入らせて候へば、在京して日本を半国づつ知行し給へ」と勧め申せしかども、得業が心を景迹して出で給へば、中々恥かしくこそ思ひ奉り候ひしか。君にも知られぬ宮仕にては候へ共、殿の御為にも祈りの師ぞかし。平家追討の為に西国へ赴き給ひしに、渡辺にて源氏の祈りしつべき者やあると尋ねられ候ひけるに、如何なる痴の者か見参に入りて候ふらん、得業を見参に入れて候ひければ、平家を呪咀して源氏を祈れと仰せられ候ひしに、其の罪遁れなんと度々辞退申ししかば、「御坊も平家と一つになるか」と、仰せられ候ひし恐ろしさに、源氏を祈り奉りし時も、「天に二つの日照し給はず、二人の国王なし」とこそ申し候へども、我が朝を御兄弟手に握り給へとこそ祈り参らせしに、判官は生れつきふえの人なれば、遂に世にも立ち給はず、日本国残る所無く、殿一人して知行し給ふ事、是は得業が祈りの感応する所に有らずや。是により外は、如何に糾問せらるる共、申すべき事候はず。形の如くも智慧ある者に、物を思はするは、何の益有るべき。如何なる人承りにて候ふぞ、疾く疾く首を刎ねて、鎌倉殿の憤を休め奉り給へや」と残る所無く宣ひて、はらはらと泣き給へば、心ある侍共、袖を濡らさぬはなし。頼朝も御簾をざと打ち下し給ひて、万事御前静まりぬ。やや有りて、「人や候ふ」と仰せられければ、佐原の十郎、和田の小太郎、畠山三人御前に畏まつてぞ候ひける。鎌倉殿、高らかに仰せられけるは、「かかる事こそ無けれ。六波羅にて尋ねきくべかりし事を、梶原申すに付けて、御坊を是まで呼び下し奉りて、散々に悪口せられ奉りたるに、頼朝こそ返事に及ばず、身の置所無けれ。あはれ人の陳状や、尤もかくこそ陳じたくはあれ、誠の上人にて御座しましける人かな。理にてこそ日本第一の大伽藍の院主ともなり給ひけれ、朝家の御祈りにも召されける、理」とぞ感ぜられける。「此の人をせめて鎌倉に三年留め奉りて、此の所を仏法の地となさばや」と仰せければ、和田の小太郎、佐原の十郎承り、勧修坊に申しけるは、「東大寺と申すは、星霜久しくなりて利益候ふ所なり。今の鎌倉と申すは、治承四年の冬の頃始めて建てし所なり。十悪五逆、破戒無慙の輩のみ多く候へば、是にせめて三年渡らせ御座しまして、御利益候へと申せと候ふ」と申したりければ、得業「仰せはさる事にて候へども、一両年も鎌倉に在りたくも候はず」とぞ仰せられける。重ねて仏法興隆の為にて候ふと申されければ、「さらば三年は是にこそ候はめ」と仰せられけり。鎌倉殿大きに悦び給ひて、「何処にか置き奉るべき」と仰せられしかば、佐原の十郎申しけるは、「あはれ、良き次にて候ふものかな。大御堂の別当になし参らせ給へかし」と申されたりければ、「いしく申したり」とて、佐原の十郎初めて奉行を承りて、大御堂の造営を仕り、勝長寿院の後ろに桧皮の御山荘を造りて入れ奉り、鎌倉殿も日々の御出仕にてぞ有りける。門外に鞍置き馬、立ち止む暇なし。鎌倉は是ぞ仏法の始めなり。折々毎に「判官殿との御仲直り給へ」と仰せられければ、「易き事に候ふ」とは申し給ひけれども、梶原平三八箇国の侍の所司なりければ、景時父子が命に従ふ者、風に草木の靡く風情なれば、鎌倉殿も御心に任せ給はず、斯くて秀衡存生の程はさて過ぎぬ。他界の後嫡子本吉の冠者が計らひと申して、文治五年四月廿四日に判官討たれ給ひぬと聞召しければ、「誰故に今まで鎌倉に存命へけるぞ。斯程憂き鎌倉殿に暇乞ひも要らず」とて、急ぎ上洛有り。院も猶御尊み深くして、東大寺に帰りて、此の程廃れたる所共造営し給ひ、人の訪ひ来るも物憂しとて、閉門して御座しけるが、自筆に二百二十六部の経を書き供養じて、判官の御菩提を弔ひて、我が御身をば水食を止めて、七十余にて往生を遂げられける。



