義経記 - 34 忠信都へ忍び上る事

さても佐藤四郎兵衛は、十二月二十三日に都へ帰りて、昼は片辺に忍び、夜は洛中に入り、判官の御行方を尋ねけり。然れども人まちまちに申しければ、一定を知らず、或いは吉野河に身を投げ給ひけるとも聞こゆる。或いは北国へかかりて、陸奥へ下り給ひける共申し、聞きも定めざりければ、都にて日を送る。兎角する程に、十二月二十九日になりにけり。一日片時も心安く暮すべき方も無くて、年の内も今日ばかりなり。明日にならば、新玉の年立ち返る春の初めにて、元三の儀式ならば、事宜しからず、何処に一夜をだにも明かすべき共覚えず、其の頃忠信他事無く思ふ女一人四条室町に小柴の入道と申す者の娘に、かやと申す女なり。判官都に在せし時より見始めて浅からぬ志にて有りければ、判官都を出で給ひし時も、摂津国河尻まで慕ひて、如何ならん船の中浪の上までもと慕ひしかども、判官の北の御方数多一つ船に乗せ奉り給ひたるも、あはれ詮無き事かなと思ふに、我さへ女を具足せん事も如何ぞやと思ひしかば、飽かぬ名残を振り捨てて、独り四国へ下りしが、其の志未だ忘れざりければ、二十九日の夜打ち更けて、女を尋ね行きけり。女出で逢ひて、斜ならず悦びて我が方に隠し置き、様々に労り、父の入道に此の事知らせたりければ、忠信を一間なる所に呼びて申しけるは、「仮初に出でさせ給ひしより以来は何処にとも御行方を承らず候ひつるに、物ならぬ入道を頼みて、是まで御座しましたる事こそ嬉しく候へ」とて、其処にて年をぞ送らせけり。青陽の春も来て、岳々の雪むら消え、裾野も青葉交りになりたらば、陸奥へ下らんとぞ思ひける。斯かりし程に、「天に口なし、人を以て言はせよ」と、誰が披露するとも無けれども、忠信が都に在る由聞こえければ、六波羅より探すべき由披露す。忠信是を聞きて、「我故に人に恥を見せじ」とて、正月四日京を出でんとしけるが、今日は日も忌む事有りとて、立たざりけり。五日は女に名残を惜しまれて立たず、六日の暁は一定出でんとぞしける。すべて男の頼むまじきは、女也。昨日までは連理の契り、比翼の語らひ浅からず、如何なる天魔の勧にてや有りけん、夜の程に女心変りをぞしたりける。忠信京を出でて後、東国の住人梶原三郎と申す者在京したりけるに、始めて見え初めてんげり。今の男と申すは、世にある者なり。忠信は落人なり。世にある者と思ひ代ゆべしと思ひ、此の事を梶原に知らせて、討つか搦むるかして鎌倉殿の見参に入れたらば、勲功疑あるべからずなど思ひ知らせんと思ひけり。斯かりければ、五条西洞院に有りける梶原が許へ使をぞやりける。急ぎ梶原女の許へぞ行きける。忠信をば一間なる所に隠し置き、梶原三郎をぞもてなしける。其の後耳に口を当てて囁きけるは、「呼び立て申す事は、別の仔細になし。判官殿の郎等佐藤四郎兵衛と申す者有り。吉野の軍に討ち洩らされて、過ぎぬる廿九日の暮方より是に有り。明日は陸奥へ下らんと出で立つ。下りて後に知らせ奉らぬとて、恨み給ふな。我と手を砕かず共、足軽共差し遣はし、討むるかして、鎌倉殿の見参に入れて、勲功をも望み給へ」とぞ申しける。梶原三郎是を聞きて、余りの事なれば、中々兎角物も言はず。唯疎ましきものの哀れに理無きを尋ぬるに、稲妻陽炎、水の上に降る雪、それよりも猶あたなるは、女の心なりけるや。是をば夢にも知らずして是を頼て、身を徒らになす忠信こそ無慙なれ。梶原三郎申しけるは、「承り候ひぬ。景久は一門の大事を身にあてて、三年在京仕るべく候ふが、今年は二年になり候ふ。在京の者の両役は叶はぬ事にて候ふ。然ればとて忠信追討せよと言ふ宣旨院宣もなし。欲に耽つて合戦に忠を致したりとても、御諚ならねば、御恩もあるべからず。仕損じては一門の瑕瑾になるべく候ふ間、景久叶ふまじ。猶も御志切なからん人に仰せられ候へ」と言ひ捨て、急ぎ宿へ帰りつつ、色をも香をも知らぬ無道の女と思ひ知り、遂に是をば問はざりけり。斯様に梶原に疎まれ、腹を据ゑ兼ねて、六波羅へ申さんと思ひつつ、五日の夜に入りて、半物一人召し具して、六波羅へ参り、江馬の小四郎を呼び出だして、此の由伝へければ、北条にかくと申されたり。「時刻を移さず寄せて捕れ」とて、二百騎の勢にて四条室町にぞ押し寄せたり。昨日一日今宵終夜、名残の酒とて強ひたりければ、前後も知らず臥したりけり。頼む女は心変りして失せぬ。常に髪梳りなどしける半物の有りけるが、忠信が臥したる所へ走り入りて、荒らかに起こして、「敵寄せて候ふぞ」と告げたりける。