義経記 - 36 判官南都へ忍び御出ある事

さても判官は南都勧修坊の許へ御座しましたりける程に、勧修坊是を見奉りて、大きに悦び、幼少の時より崇め奉りける普賢、虚空蔵の渡らせ給ひける仏殿に入れ奉りて、様々に労り奉る。折々毎に申されけるは、「御身は三年に平家を亡ぼし給ひ、多くの人の命を失ひ給ひしかば、其の罪如何でか逃れ給ふべき。一心に御菩提心を起こさせ給ひて、高野粉河に閉ぢ籠り、仏の御名を唱へさせ給ひて、今生幾程ならぬ来世を助からんと思し召されずや」と勧め奉り給ひければ、判官申させ給ひけるは、「度々仰せ蒙り候へども、今一両年もつれなき髻付けてこそつらつら世の有様も見ん」とこそ宣ひけれ。然れども若しや出家の心も出で来給ふと尊き法文などを常には説き聞かせ奉り給ひけれども、出家の御心は無かりけり。夜は御徒然なる儘に、勧修坊の門外に佇み、笛を吹き鳴らし、慰ませ給ひける程に、其の頃奈良法師の中に、但馬の阿闍梨と言ふ者有り。同宿に和泉、美作、弁君、是等六人与して申しけるは、「我等南都にて悪行無道なる名を取りたれども、別に為出だしたる事もなし。いざや、夜々佇みて、人の持ちたる太刀奪ひて、我等が重宝にせん」とぞ言ひける。「尤も然るべし」とて、夜々人の太刀を奪り歩く。樊噲が謀をなすも斯くやらん。但馬の阿闍梨申しけるは、「日頃は有りとも覚えぬ冠者極めて色白く、背も小さきが、良き腹巻著て、黄金造りの太刀の心も及ばぬを帯き、勧修坊の門外に夜な夜な佇むが、己が太刀やらん、主の太刀やらん、主には過分したる太刀なり。いざ寄りて奪らん」とぞ申しける。美作申しけるは、「あはれ詮無き事を宣ふものかな。此の程の九郎判官殿の吉野の執行に攻められて、勧修坊を頼みて御座すると聞く。只置かせ給へ」と申せば、「それは臆病の至る所ぞ。など奪らざらん」と言へば、「それはさる事にて便宜悪しくては如何あるべからん」と申しければ、「然ればこそ毛を吹いて疵を求むるにてあれ。人の横紙を破るになれば、さこそあれ」とて勧修坊の辺を狙ふ。「各々六人、築地の蔭の仄暗き所に立ちて、太刀の鞘に腹巻の草摺を投げかけて、「此処なる男の人を打つぞや」と言はば、各々声に付きて走り出で、「如何なる痴者ぞ。仏法興隆の所に度々慮外して罪作るこそ心得ね。命な殺しそ。侍ならば髻を切つて寺中を追へ。凡下ならば耳鼻を削りて追ひ出だせ」とて、奪らぬは不覚人共」とて、ひしひしと出で立ち進みけり。判官は何時もの事なれば、心を澄まして、笛を吹き給ひて御座しけり。興がる風情にて通らんとする者有り。判官の太刀の尻鞘に腹巻の草摺をからりとあてて、「此処なる男の人を打つぞや」と言ひければ、残りの法師共「さな言はせそ」とて三方より追ひかかりたり。斯かる難こそ無けれと思し召し、太刀抜いて、築地を後ろに宛てて待ち懸け給ふ所に長刀差し出だせば、ふつと切り、長刀小刃刀の間に四つ切り落し給へり。斯様に散々に切り給へば、五人をば同じ枕に切り伏せ給ふ。但馬手負うて逃げて行くを、切所に追つかけ、太刀の脊にて叩き伏せ、生けながら掴んで捕り給ふ。「汝は南都にては誰と言ふ者ぞ」と問ひ給へば、「但馬の阿闍梨」と申しければ、「命は惜しきか」と宣へば、「生を受けたる者の、命惜しからぬ者や御座候ふ」と申しければ、「さては聞くには似ず、汝は不覚人なりけるや。首を切つて捨てばやと思へども、汝は法師なり。某は俗なり。俗の身として僧を切らん事仏を害し奉るに似たれば、汝をば助くるなり。此の後斯様の狼藉すべからず。明日南都にて披露すべき様は、「某こそ源九郎と組むだりつれ」と言はば、さては剛の者と言はれんずるぞ。印は如何にと人問はば、無しと答へては、人用ゐべからず。是を印にせよ」とて、大の法師を取つて仰け、胸を踏まへ、刀を抜きて、耳と鼻を削りて放されけり。中々死したらばよかるべしと、歎きけれども甲斐ぞ無き。其の夜南都をば掻き消す様にぞ失せにける。判官は此の中夭に会はせ給ひて、勧修坊に帰りて、持仏堂に得業を呼び奉りて、暇申して、「是にて年を送りたく候へども、存ずる旨候ふ間、都へ罷り出で候ふ。此の程の御名残尽くし難く候ふ。若し憂き世にながらへ候はば、申すに及ばず。又死して候ふと聞召し候はば、後世を頼み奉る。師弟は三世の契りと申し候へば、来世にて必ず参会し奉り候ふべし」とて、出でんとし給へば、得業は「如何なる事ぞや。暫く是に御座しまし候ふべきかと存じ候ひつるに、思ひの外御出で候はんずるこそ心得難く候へ。如何様人の中言について候ふと覚え候ふ。たとひ如何なる事を人申し候ふ共、身として用ゐべからず。暫し是に御座しまして、明年の春の頃、何方へも渡らせ給へ。努々叶ひ候ふまじ」と、御名残惜しき儘留め奉り給へば、判官申されけるは、「今宵こそ名残惜しく思し召され候ふとも、明日門外に候ふ事御覧じ候ひなば、義経が愛想も尽きて思し召されんずる」と仰せられければ、勧修坊是を聞きて、「如何様にも今宵中夭に会はせ給ふと覚えて候ふ。此の程若大衆共朝恩の余りに夜な夜な人の太刀を奪ひ取る由承りつるが、御帯刀世に超えたる御太刀なれば、取り奉らんとて、し奴原が切られ参らせて候ふらん。それに付けては何事の御大事か候ふべき。聊爾に聞こえ候はば、得業が為に節々なる様も候ふらん。定めて関東へも訴へ、都に北条御座しまし候へば、時政私には適ふまじとて、関東へ仔細を申されんずらん。鎌倉殿も左右無く宣旨院宣無くては、南都へ大勢をばよも向けられ候はじ。其の程の儀にて候はば、御身平家追討の後は都に御座しまして、一天の君の御覚えもめでたく、院の御感にも入り給ひしかば、宣旨院宣も申させ給はんに、誰か劣るべき。御身は都に在京して、四国九国の軍兵を召さんに、などか参らで候ふべき。畿内中国の軍兵も一つになりて参るべし。鎮西の菊地、原田、松浦、臼杵、戸次の者共召されんずに参らずは、片岡、武蔵などの荒者共を差し遣はし、少々追討し給へ。他所は乱るる事も候ひなん。半国一つになり、荒乳の中山、伊勢の鈴鹿山を切り塞ぎ、逢坂の関を一つにして、兵衛佐殿の代官関より西へ入れん事あるべからず。得業も斯くて候へば、興福寺、東大寺、山、三井寺、吉野、十津川、鞍馬、清水一つにして参らせん事は安き事にてこそ候へ。それも適ふまじく候はば、得業が一度の恩をも忘れじと思ふ者二三百人、彼等を召して城郭を構へ、櫓をかき、御内に候ふ一人当千の兵共を召し具して、櫓へ上がりて弓取りて候はば、心剛なる者共に軍せさせて、余所にて物を見候ふべし。自然味方亡び候はば、幼少の時より頼み奉る本尊の御前にて、得業持経せば、御身は念仏申させ給ひて、腹を切らせ給へ。得業も剣を身に立てて、後生まで連れ参らせん。今生は御祈りの師、来世は善智識にてこそ候はんずれ」と世に頼もしげにぞ申されける。是に付けても暫く有らまほしく思はれけれども、世の人の心も知り難く、我が朝には義経より外はと思ひつるに、此の得業は世に超えたる人にて御座しけると思し召されければ、やがて其の夜の内に南都を出でさせ給ひけり。争でか独りは出だし参らせんなれば、我が為心安き御弟子六人を付け奉り、京へぞ送り奉りける。「六条堀河なる所に暫く待ち給へ」とて、行方知らず失せ給ひぬ。六人の人々空しくぞ帰りける。それより後は勧修坊も判官の御行方をば知り奉らず。され共奈良には人多く死にぬ。但馬や披露したりけん、判官殿勧修坊の許にて謀反起こして、語らふ所の大衆従はぬをば、得業判官に放ち合はせ奉るとぞ風聞しける。